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因幡の白兎、赤裸、ひきこもり、失われた20年

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鳥取タンポポの会(不登校の親の会)の20周年記念の講演会に呼んでいただいた。私も、ちょうど不登校やフリースクールのことに関わりはじめて20年ほどになるので、「失われた20年」とも言われる、この20年は何だったのか、考えながら、お話しさせていただいた。 講演内容はさておき、その前日、因幡の白兎の神話の発祥地、白兎海岸に連れていっていただいたのだが、神社にお参りし、海を眺めていたとき、ふと、白兎神話は、不登校・ひきこもりの話じゃないかと思えた。 まず、因幡の白兎のあらすじ。 島にいた白兎が海にいるワニをだまして、一列に並ばせたワニを踏んで対岸に渡る。ところが、だまされていたことがわかって、最後の一匹に、白兎は毛皮をはがされてしまう。兎が泣いていると、通りかかった神々が、「海水を浴びて風に当たって寝ていろ」と言うので、そのとおりにしたところ、ウサギの体は傷だらけになってしまう。後から通りかかったオオクニヌシは「今すぐあの池に行って、真水で体を洗って、その池に生えている蒲の穂をとって花粉を身につければ治る」と教え、そのとおりにしたところ、兎は回復した。 ワニをだます白兎は、まるで学校のなかで、他者を出し抜く競争をさせられている子どもみたいだ。ところが、何かのきっかけで、身にまとっていた学歴など社会的な地位(=毛皮)がはがれてしまうことがある。赤裸の自分をさらすのは、あまりに痛い。ところが、家族や周囲は、そこに、さらに潮水を浴びせるようなことをするので、「白兎」は傷だらけになってしまう。そこで必要なのは、世間の価値観=潮水を、いったんは洗い流してくれる真水であり、赤裸の自分を、赤裸のままに受けとめてくる蒲の穂だろう。そういうプロセスを経て、「白兎」は再生する。それは、もとの小ずるい「白兎」ではなく、赤裸の自分と向き合って、その痛みと葛藤を経て、新しく再生した「白兎」だろう。 たぶん、それは個々人の問題だけではなくて、日本社会も、「失われた20年」から、かつての「日本」に戻ろうとするのではなく、痛みとともに赤裸の自分に向き合って、新しく再生する必要があるのだ。 白兎海岸で、オオクニヌシの神さまが、そんなことを教えてくれたように思った。 お世話になった森英俊さん、鳥取タンポポの会のみなさん、ありがとうございました。 白兎海岸