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居場所、灰色、ムダ、共同性……

社会自体の商品化が進み、お金を稼がないと生きていけなくなっているなかで、個々人が自分の商品価値を高めようと努力すればするほど、「おたがいさま」の領域や、社会の公共性は失われてきている。社会が多様であるためには、人が商品としてではなく関係を結べる領域を、取り戻していくことが必要にちがいない。 「居場所」と言われてきたさまざまな営みは、不登校やひきこもりをはじめ、この商品社会でやっていけないと感じた人たちが、おのずと培ってきた土壌だ。それぞれは小さくとも、それは、人が生きていく足場となりうる。私はそう感じてきた。だから、そこに商品化の視線が及ぶことに、抵抗を感じるのだ。 商品社会は、商品にならないものを毛嫌いする。すべてのものを商品価値に一元化しようとする。ミヒャエル・エンデの『モモ』でいう、“灰色”の世界だ。数値目標、成果主義、自己評価……そういったものが、気づかぬうちに、あらゆる領域に入り込んでいる。NPOだとか、フリースクールなども例外ではない。この人までそんなこと言うか、というようなことも増えてきた。私たちが大事にしたいと思ってきたことは、「ムダ」なことだったり、「そうは言っても……」という言葉のなかで、どんどん切りつめられている。 しかも、“灰色”の論理は、「個性」「多様性」「選択」「自由」といった言葉をまとって、一見よさそうに見える装いをしているから、やっかいだ。でも、ダマされてはいけない。“灰色”と闘うには、“灰色”がムダだというものこそを大事にして、そこから共同性を培っていくことが必要だ。それは、“灰色”からしたら「負け組」とされる人びとのあいだにあるのだ、きっと。

教育の「多様化」と商品化

教育の「多様化」について考えたいことはいろいろあるが、そのひとつに、「その後」のことがある。学校が多様化する、教育が多様化する。それ自体はいいことかもしれない。しかし、「その後」を考えたとき、結局は「いい大学」に入ることが目指されていたり、学歴価値は相対化できていなかったりすることも多い。学歴価値は何なのかと言えば、とどのつまりは就職との交換価値だったりする。そこで何が学べるのかという実質に価値が置かれていることは、残念ながら少ない。 学歴価値を相対化するように見える場合でも、「あなたの好きに生きたらいい」というほかなく、フリースクールなどで、具体的にオルタナティブな価値を大事にして生きていく基盤が用意できているわけではないだろう。それを責めたいわけではない。いかに「多様な学び場」であろうと、社会のなかに位置づいているのであって、「その後」の基盤がない以上、学校と同じく、経済的成功のための道具、教育商品として、消費者の選別にかけられることになってしまうと思うのだ。 そもそも学校制度自体が、人を共同体から引き抜いて、近代工業社会の労働力に仕立て上げていく装置だったと言える。一時期までは、引き抜いた代わりに安定した雇用へと接続できていたから、学校は人びとを引きつけてきたのだ。しかし、大学進学率については、ずっと上昇していたわけではない。高卒の就職が安定していた70年代半ば~90年代初頭までは横ばいで、男子についてはむしろ漸減している。大学進学が過熱化するのは、バブル崩壊後、高卒就職が困難になってきてからのことだ。当たり前のことだが、教育は常に社会情勢の影響のなかにある。 政府がフリースクール支援を言い出した背景には、大学を卒業しても安定した雇用を保障できなくなり、これまでの学校制度が機能しなくなってきていることがある。そこで「未来のアインシュタインやエジソン」「ダイヤモンドの原石」(下村博文)を発掘して、ごく一部のエリートには教育費を重点配分し、公教育予算を全体としては削減していこうという大きな流れがある。 「多様な学び」は、教育の商品化、能力の商品化、人の商品化の力学から自由にはなれない。むしろ、その力学を強化してしまう可能性も高い。いかに学び方や機会が多様となろうとも、商品化という点で一元化されているのでは、それは本当に「多様性」と言えるのか。学校

学校を選べるようになることはよいことか?

学校を選べるようになることはよいことか? 選べないよりは選べたほうがよい。それ自体はそうかもしれないとも思う。 しかし問題は、 〈誰が〉〈何を〉〈どういう基準で〉 選ぶのか、ということだろう。そのあたりを考えないで、ただ選べることはよいことだというのは、短絡的なのではないだろうか。 まず、 〈誰が〉 ということ。学校を選ぶというとき、それは保護者が選ぶのか、子ども自身が選ぶのか。「子どもの意志を尊重して」と言っても、子どもは親の意思を汲み取って、自分の意志と言っていることも多い。第一、財布のヒモは親が握っているのだから、親の意向を無視して子どもが選択できることはあり得ない。前提として、親に子どものことを尊重する価値観があれば理想的なのかもしれないが、多くの場合、親は子どもを自分の思うように育てたいと思ってしまっている。それが子どもの不登校などによって手ひどく裏切られて初めて、親は自分の価値観を問い直してきたのではなかったか。 次に 〈何を〉 ということ。学校外を選べるようにと言っても、それは〈学び場〉を選ぶということであって、学校の代わりに〈居場所〉を選ぶということにはならないだろう。しかし、私自身の経験で言えば、学校に行かなくなった子ども(親ではなく)がまず求めるのは、〈居場所〉だろうと感じてきた。それは逃げ場とも言えるし避難所とも言えるだろう。それを家に求める場合もあれば、家の外に求める場合もあるが、いずれにしても「選択」というのとは、ちょっとちがう。現状では、最初からフリースクールなどを「選んだ」という人は、ほとんどいないだろう。ただ、それでは、いつまでも本当はいてはいけない場だという苦しみから逃れられない、だからこそ、学校外の場が制度として認められるべきだ、という声もある(たとえば、 多様な教育機会確保法「ここまできた!」報告会資料 58p前北海さんコメントなど参照)。そういう声自体は否定できない。ただ、そこでも価値観が問われる。なぜ、逃げたり避難することが、否定されるのか。それを問わないで、それらの場所を〈学び場〉として認められるように求めるのでは、不登校から問われていることを遠ざけてしまうのではないか。また、フリースクールなどは〈学び場〉でなければ認められない、ということにもなる。現にあるフリースクールなどは、まともに活動しているのであれば、

誰もが安心して不登校できる学校を

多様な教育機会確保法案をめぐっては、さまざまな懸念や批判があるが、推進する人たちからは、「学校外の道が一歩でも認められれば」「学校外の道が最初から選択できる制度であれば、子どもたちは追い詰められることも少なくなる」という声が多く聴かれた(たとえば、2015年10月20日、 多様な教育機会確保法「ここまできた!」報告会資料 など参照)。 この、「学校外の道が認められる」とは、どういうことを言うのだろうか? そもそも「学校外」とは何を指すのだろうか? 多様性というとき、それは塾でも何でもありということなのか、選択の自由は、教育商品を選択できる消費者としての自由ということなのか。そのあたりがあいまいなままでは、結局は義務教育の民営化=市場化が進むばかりで、フリースクールなどはかえって苦境に陥ってしまうと危惧している。 また、「学校外」が「学び場」として認められることを求めるのであれば、それは不登校が認められるということとはズレてしまう。不登校は「休む」「逃げる」「撤退」という面を強く持つ。現状では、それは「学校外の学び」より優先すべきものだろう。「学校外の学び」を求めるとしても、それはきちんと休んだり逃げることが確保されてからの話だ。今回の法案で何より懸念されてきたのは、個別学習計画が子どもから逃げたり休むことを奪い、追い詰めてしまうことだろう。 しかし一方で、「誰もが安心して行ける学校を」という言い方(たとえば、 「多様な教育機会確保法案」反対要望への賛同人の声 など参照)にも、ひっかかるものがある。それは、そこに不登校を本来あってはならない状態と見なすまなざしを感じるからかもしれない(言っている人にそういう意図がないとしても)。 不登校が学校のあり方を問うているのは、まちがいない。そのとき、選択の自由を促進すれば学校のあり方が変わることにつながると考えるのか、いまの学校を「誰もが安心していける場」にしていくべきと考えるのか。ここで議論がねじれてしまっている。 私は、「 誰もが安心して不登校できる学校を 」と言いたい。それは、学校のあり方だけではなく、不登校しても不利益にならない社会のあり方を問うものでもあるだろう。 法案は1月半ばから国会での検討が再開される。しかし法案がどう転ぼうと、法案以前の問題として、このあたりをきちんと議論したいと願っている。

新しくブログを立ち上げました。

新年を機に、新しくブログを立ち上げることにしました。 これまで、不登校やひきこもり、フリースクールなどに関する文章を、 なるにわブログ に書き散らしていましたが、なるにわの活動に直接は関係しないものも多く、とくに「多様な教育機会確保法案」については、分量も多くなってしまいました。 そのため、なるにわブログとは別に、ブログを立ち上げた次第です。法案についての記事ほか、いくつかのカテゴリは、 なるにわブログ から引き継ぎました(なるにわブログにも残しています)。これらについては、今後、こちらのブログにアップしていきます。 ついでに、Twitterも 個人アカウント をつくりました。よかったら、フォローしてやってください。 引き続き、よろしくお願いします。