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11月, 2020の投稿を表示しています

「大丈夫」をめぐって-3

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先の記事 に対して、存在承認の場が減ってきているというのは「昔がよかったバイアス」ではないのか、という意見をいただいた。たしかに、バイアスといえばバイアスのような気もする。「いまどきの若者は」と同じような、年寄りのくりごとみたいになってはいないかと思うこともある。あるいは、昔のほうが存在承認の場が豊富だったとして、それを言われたところで、現在を生きている子ども・若者からしたら、自分たちへの否定にも聞こえるだろう。かく言う私も、年輩の世代に対しては、そういう反発を覚えてきたところもある。 ただ、ますます市場が拡大する社会にあっては、業績承認ばかりが肥大化し、存在承認の場はますます縮減してきているのではないかと、やっぱり思ってしまう。たとえば、学校にしても、業績承認ばかりが強まったことで、とても苦しい場になってきたのではないだろうか。学校だけではなく、あちこちで業績承認ばかりが肥大化して、存在の承認される場は家族のみに縮減していったあげく、それすらあやうくなっているから、多くの人が「生きづらい」と感じているのではないだろうか。 しかし、だからといって、過去の時代や古い共同体(あるいは家族)を美化することになってしまうと、それはたいへんあやういように思う。「親学」だとか、「母性神話」だとか、「父性の復権」だとか、「伝統的子育て」だとか、そういうものに簡単に結びついてしまう。あるいは、海外に理想を見てみたり、相互扶助を観念的に美化しすぎたり、純化された存在承認の場を求めてしまうのも、あやういものがあるだろう。どこかにユートピアがあるわけではない。 存在承認の場は、家族や古い時代の幻想に求めるのではなく、変に美化するのでもなく、自分の足下に生み出していくことが必要だろう。「居場所」だとか「子ども食堂」などがつくられてきた背景には、何かそういうものを求めるものが、人々のなかにあったからではないかと思う。そこにあるのは、ごはんをともにするとか、生活の一部をともにするような、ゆるやかなつながりであるように思う。それは家族の代替にはならないだろうが、家族ではない、ゆるやかな存在承認の場があることは、ひとつの可能性ではないだろうか。 ただ、それさえもが道具として利用されている面もある。それが、たんに癒やしの場としてのみ機能するのであれば、それはいまの社会のあり方を問う場ではなく、補完す

「大丈夫」をめぐって-2

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新型コロナウィルスの感染防止策で、「正常性バイアス」という言葉をよく聞くようになった。コロナに関して言えば、「自分だけはかからない」と思い込んで、感染防止がおろそかになってしまうことを言うそうだ。コロナにかぎらず、災害や事故などに対して、多くの人は「正常性バイアス」をかけて日常を過ごしている。常に感染症や災害や事故などを警戒して生きていたら、へとへとになってしまう。実際、長引くコロナの感染拡大で、多くの人がへとへとになってしまっているのではないだろうか。感染症対策としてはやむを得ないとしても、日常生活においては、「正常性バイアス」はむしろ必要なものなのだろう。 以前の記事 で、信頼とは根拠がなくても信じられるということで、コロナで失われたのは世界への信頼ではないかということを書いた。そういう意味では、信頼というのも「正常性バイアス」のひとつなのかもしれない。いろんなことを疑いだしたらキリがないし、どこまでも自分を閉じていくほかなくなってしまう。基本的に自分は「大丈夫」という感覚は、生きていくうえでは不可欠なもので、それを「基本的信頼」と言ったりするのだろう。 その信頼がどこから生まれてくるのかと言えば、存在承認ということだろう。業績がいくら認められても、それは信用(根拠があって信じられること)にはなっても、信頼(根拠がなくても信じられること)にはならない。 ただ、存在承認というのは、常にあやういものでもあるように思う。ややもすれば、共依存や、転移・逆転移などの問題を引き起こしかねない。学校で居場所を失った人が、ようやく自分の存在を受けとめられると思っていた場で、その信頼が裏切られることになれば、その傷はたいへん深いものがあるように思えてならない。 東京シューレにおける性被害事件 においても、もしかしたら、そういう面はあったのではないだろうか。私がこの事件を考え続けているのは、これが例外的な事件ということではなく、ここにはフリースクールや居場所の関係者がよくよく考えなければならない問題があるように思うからだ。 そういう意味では、先に書いたことと矛盾するようだが、自分たちの活動は正しいと、みずからに「正常性バイアス」をかけてしまってはいけない。あるいは周囲が、基本的には正しいことをしている人たちなのだからと、「正常性バイアス」をかけてはいけないだろう。逆に、特定の団体や

「大丈夫」をめぐって-1

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このブログに 少し前に書いた記事 に、「学校に行かなくても大丈夫」というのは、「学校に行かなくても(将来が)大丈夫」と言っているわけではなく、別の次元で大丈夫と言ってきたのではないか、という主旨のコメントをいただいた。 これはその通りで、不登校にかかわる人のなかで言われてきた「大丈夫」というのは、いわば存在承認の言葉であって、業績承認とは別の価値尺度からの言葉だったように思う。たとえば、絵本作家の五味太郎さんは、次のように語っていた。 ――学校に行かなくてもそうですけど、他人とちがう生き方をしていると、やたらに不安がられたり、心配されますよね。 そういうとき、誰かほかに「大丈夫」って言ってくれる人がいるとちがうんだよな。これが一人いるかいないかで、けっこうちがう。俺のまわりは、けっこういたな。「大丈夫だよ、おまえ。学校行くヒマあるんなら競馬行こう」みたいな(笑)。大丈夫じゃないんだよね、全然(笑)。だけど、その「大丈夫」は、社会保障とかそういう意味じゃないよな。「なんか生きてけるよね」っていう感じ。(全国不登校新聞社編『この人が語る不登校』講談社2002) 「なんか生きていけるよね」というのは、生に対する根拠のない信頼で、存在承認というのは、条件つきではなくて無条件だからこそ、存在を受けとめる承認になりうるのだろう。そういう「大丈夫」に対して、「でも、実際問題、将来はどうするんだ」とか「逃げてもいいって言うけど、逃げた先の保証もなしに言うのは無責任だ」とか言われることもままあるが、そういう人は、このあたりがゴッチャになっているのではないかと思う。しかし、根拠なく生を信頼するというのはとても難しいことで、なかなか、自分自身のことさえ信頼できない。多くの不登校の子どもを持つ親は、子どもが学校という業績承認の場から外れてしまったがゆえに、子どもの「ありのまま」を受けとめることを突きつけられてきたのだろう。「学校に行かなくても大丈夫」という言葉は、そういう親たちから、痛みとともに語られてきたものだったように思う。 しかし、不登校にかかわる人たちのあいだでも、「大丈夫」という言葉は、ズレてしまってきたように思う。もともと、当事者に向けて語られるときは存在承認の言葉だったものが、世間に向けられて語られるとき、「大丈夫」という言葉は、業績承認の言葉へとズレてしまってきたのではない