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ズレつつ、揺れつつ

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福祉の現場などでは、アセスメントの重要性が言われる。本人が何に困っていて、それが何に起因していて、どういう福祉サービスが利用できるのか、話を聞きながら見立てて、援助計画を組み立てていく。福祉サービスを利用するには、介護や障害の区分認定が必要だったり、必要性はあるのに本人もどうしてよいかわからずに利用できていないこともあるので、アセスメントが重要だというのはわかる。ただ、一方で、アセスメント(assessment)というのは、そもそもは評価・査定を意味する言葉であるし、その評価・査定にもとづいて人を分類するものでもある。 必要な場合はあるにせよ、そもそも人を分類するのは無礼だ、と思う。どうしても、私はそこに引っかかってしまう。人を分類する、名前で切断する、そういう名前の呪縛に対して、どうしてもあらがいたくなる。「いい齢をしてピーターパンか!」とか言われそうだが、人を名づけるのもイヤだし、自分が名づけられるのもイヤで、その名前に閉じ込められてしまうのがイヤなのだ。私は、障害名などで名づけられたことはないが、たとえば仕事や活動においても、「支援者」と言われると、ちがうと言いたくなるし、「教員」にしても、「編集者」や「物書き」にしても、そうは言い切りたくないし、実際、かけもちで中途半端に仕事をしている。それは、それを目指したというよりも、なんだかそうなってしまったのだ。 人には、さまざまな面があるのに、名づけられたとたん、その名前に呪縛されてしまう。もちろん、社会は名前がなければ成り立たない。まったく名づけのない状態なんてない。けれども、どうしても、名づけられたとたん、逃げたくなる。ズラしたくなる。人のことも、名づけからはズレる面を見たい。そこで対話したい。 どんな名前をもつ人も、その名前とはズレる面があって、常に揺れている。その揺れに共鳴していると、そこに対話が生まれるように思う。逆に、名前ばかりを見て、人のことを固定的に見ていると、対話は生まれないし、そこに生まれるのは支配か敵対かになるように思う。 最近(でもないか)、流行りのオープンダイアローグでは、対話をするには、ポリフォニー(多声的であること)が大事だという。そして、ポリフォニーには「水平的ポリフォニー」と「垂直的ポリフォニー」とがあるという。水平的ポリフォニーというのは、いろんな人の声があるということで、垂直的