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手弁当パラドックス

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てべんとう【手弁当】: 自身で弁当を持参すること。また、弁当代を自弁すること。また、報酬を当てにせず奉仕すること。手弁。「―で選挙の応援をする」(広辞苑第6版) NPO活動の界隈では、「手弁当でやっている」と聞くことが多い。 「手弁当」は、広辞苑では「報酬を当てにせずに奉仕すること」となっているが、実際は、当てにしていても無報酬だったり、低賃金だったり、サービス残業だったりするということも多い。なぜ、そうなるのかと言えば、市場サービスでも行政サービスでも届かないような領域の活動を、市民が自分たちの力でなんとかしようとしているからだろう。 お金や制度でドライに割りきってしまうのでは、成り立たない領域がある。しかし、それを手弁当で成り立たせようとすると、無報酬や低賃金労働が常態化し、いわゆる「やりがい搾取」になってしまう。また、活動をするには、家賃や光熱費など人件費以外にもコストがかかり、その費用は市場に払っている。収入は不安定にもかかわらず、支出は確実に出ていく。調整弁とできるのは人件費しかない。そういうことが多いように思う。 手弁当の活動は、常に矛盾に引き裂かれている。その矛盾を自分にしわ寄せすることで、なんとかやっている。結果、活動の理念に反して、肝心の活動する人自身が疲弊してしまうということも多い。それでも活動を続けることができる人というのは、その矛盾を抱え続けられるだけのタフさがあるか、それだけのサポートを得られる人にかぎられてしまう。 また、手弁当であるがゆえに陥りやすい問題もある。手弁当でやっていると、どうしても「こんなに一生懸命、手弁当でやっているのに」という気持ちになってしまう。そこで、相手(あるいは仲間)が思うように動かなかったり、うまくいかないことがあると、相手への思いが反転して、憎悪のような気持ちが生じてしまう。ややもすれば、それはハラスメントにつながってしまうだろう。 あるいは、費用が安かったり無償だったりすると、利用する側は、活動の理念にまで共感しているわけではなく、たんに安いサービスとして利用していることもある。そうであってもかまわないのだが、活動をしている側からすると、たんに安く利用されているだけという気持ちも生まれてしまう。活動する側が「ともに活動をつくりたい」と思っていても、利用する側からすると、それはひとつの

子どもの自殺者数増加について

文科省の調査(*1)によると、2018年度の小・中・高校生の自殺者数は332人で、現在の統計方法になった1988年度以降、過去最多となったという。ここ3年連続で増加傾向にあるが、その前の3年、2013年度から2015年度にかけては、240人から215人まで減少傾向にあった。それが2016年度から再び増加に転じ、2017年度から2018年度にかけては250人から332人へと、82人も増えている。 ただし、この調査は「学校が把握し、計上したもの」となっているため、実態を反映しているのか、疑問の声もある。自殺の統計には警察庁の調査もある(*2)。それによると、19歳以下の年間自殺者数は、2016年520人、2017年567人、2018年599人と、やはりこの間は増加している。 たいへん気がかりな数字だ。自殺の要因については、さまざまであろうし、文科省の調査でも「不明」が6割となっている。実際問題として、人が自殺にいたるには、いろんなことがからみあっているだろうし、理由を安易に特定することはできないだろう。しかし、一方で影響がないか、検証が必要だと思うのは、夏休み明けの自殺に関連する報道のあり方についてだ。 内閣府が 18歳以下の日別自殺者数 を発表し、9月1日が突出して多いことがわかったのが2015年。以来、不登校新聞社をはじめとして、夏休み明け前後の時期には、不登校と夏休み明けの自殺をからめた報道キャンペーンが、毎年、過熱気味にくり返されてきた。そして、その間、子どもの自殺者数は、増えているのだ。この数字を、関係者は重く受けとめなければならないだろう。 *1  文部科学省 平成30年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査 *2  警察庁 平成30年中における自殺の状況 ※文部科学省の調査は期間が「年度」で、対象は小・中・高校生、警察庁の調査は期間が「年」で対象は19歳以下となっているので、単純比較はできない。

「神様化」も「悪魔化」もせずに

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社会問題などに取り組んで信頼されてきた個人や団体が、何か失言なり不祥事なりを起こすと、信頼を失ってしまう。それは当然のことでもあるだろうが、その一点で、すべての信頼を失ってよいのか、と思うこともあるだろう。失言や不祥事への批判はきちんとしなければならないが、ややもすると、それが人格攻撃のようになって、その人(団体)の言動のすべてが悪いというようなバッシングとなってしまう。反面、そういうバッシングを避けようと、きちんと批判や検証することを控える人たちがいて、その人たちは沈黙してしまう。結果、問題をきちんと検証することができず、忘却されていってしまう。そういうことが、ままあるように思う。 「罪を憎んで人を憎まず」ではないが、誰かの言動を批判をするときは、その人の人格とは切り分けないといけないと思う。第一、どんな立派なことをしている人であっても、結局は、人間のやっていることであって、まちがいもあれば、わかっていないこともあるものだろう。ひとつの問題に理解の深い人が、ほかの問題をわかっていないことなど、たくさんある。勝手に「神様化」しておいて、「神様じゃなかった!」と嘆くのはむなしい。 逆もまた然りで、どんな悪いことをしている人でも、正しいことをすることもあれば、やさしかったりすることもあるだろう。たとえば、ユダヤ人のホロコーストを指揮したアイヒマンは、極悪人などではなく、ごく平凡な役人で家庭人だったそうだ。理解不能な「悪魔」だったわけではない。 問題と人格をいっしょくたにすれば、その人を排除するしかなくなってしまう。そうなると、問題をきちんと検証することもできないし、対話もできない。あるいは、こちらが人格と切り分けて批判しているつもりでも、相手が人格攻撃と受けとめてしまうと、批判には壁を立てられてしまう。そして、もっとタチが悪いのは、個人対個人ではなく、派閥どうしの争いのようになってしまうことだろう。そうなると、敵か味方かに二分してしまい、自分たちの陣営にあることは、問題があっても目をつむり、相手のほうの問題は攻撃するということになってしまう。 批判が対話に開かれるとすれば、まずは自分への批判を真摯に受けとめることからしか、始まらないのかもしれない。自分自身だって、批判されるべきことはたくさんあって、他者を一方的に指弾できるほど、正しい存在なわけではない