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「“不登校”44万人の衝撃」はフェイクニュースか

もう1カ月ほど前のことになるが、5月30日のNHKスペシャルで「 “不登校”44万人の衝撃 」という番組が放送された。番組には不登校新聞社も関わっていた。私は不登校新聞の元編集長で現在も理事のひとりでもあるが、この件はまったく知らなかったので驚いた。何に驚いたかと言えば、44万人という数字である。数字を誇大に盛って、「衝撃」とあおっている。フェイクニュースか、と言いたくなる。 ○日本財団の調査 元になっているのは、日本財団が2018年10月にインターネットを利用して中学生を対象に行なった調査だ( 「不登校傾向にある子どもの実態調査報告書」 )。調査は、子どものタイプを下記のように分類している。 ・不登校 :文科省定義の不登校 学校に行っていない状態が一定期間ある子ども(30日以上欠席) ・不登校 :文科省定義外の不登校 学校に行っていない状態が一定期間ある子ども(30日未満/1週間以上連続欠席など) ・教室外登校 学校の校門・保健室・校長室などには行くが、教室には行かない子ども ・部分登校 基本的には教室で過ごすが、授業に参加する時間が少ない子ども(遅刻早退が1カ月に5回以上など) ・仮面登校A:授業不参加型 基本的には教室で過ごすが、みんなとちがうことをしている子ども(月 2~3回以上、または1週間続けて) ・仮面登校B:授業参加型 基本的には教室で過ごし、みんなと同じことをしているが、心の中では学校に通いたくない学校がつらい・嫌だと感じている子ども(毎日) ・登校 学校になじんでいる このうち、「文科省定義の不登校」は10万8999人、これに加えて33万人が「不登校傾向」だとしているが、その内訳は、「文科省定義外の不登校」が5万9921人、「教室外登校」「部分登校」「仮面登校A」をあわせて13万703人、「仮面登校B」が14万2161人となっている。 「文科省定義以外の不登校」約6万人をカウントするのはまだわかるが、33万人のうち27万人は、基本的に学校には行っている子どもたちで、とくに「仮面登校(A・B)」については、内心の問題を「不登校傾向」と言っている。NHKは、それをもって「“不登校”44万人の衝撃」だと言っているのだが、これはいかにも誇大な表現と言えるだろう。 日本財団の 別の記事 では「不

学校への疎外、学校からの疎外

教育機会確保法をはじめとして、最近の不登校やフリースクールをめぐる情勢に、なんでこんなに違和感を覚えるのかを考えたとき、そこには、「疎外」の問題があるように思う。 「疎外」だなんて、いかにもいかめしい言葉だと思うが、ちょっとばかり、おつきあいいただきたい。 社会学者の見田宗介は、「二重の疎外」ということを言っていた。いわく、「貨幣への疎外」があって、「貨幣からの疎外」が問題となる。どういうことか。 「貨幣への疎外」というのは、お金でしか生活ができなくなることだ。いまや、私たちは衣・食・住すべてを、お金でまかなっている。ガンジーみたいに糸車をまわして糸を繰って衣服を織る人なんて、ほとんどいない。おおかたの人は、日々、着るものも食べるものも住む場所も、お金で買っている。水道光熱費もしかり。井戸から水をくみ上げたり、裏山から薪を切り出してくる人はほとんどいない。生活というものが、すべて消費になっている。そうすると、そのためのお金を稼ぐことが必要になり、働くこと=お金を稼ぐことになる。つまりは、自分も労働力を売って生活するほかなくなる。これが「貨幣への疎外」ということだろう。 そして、お金でしか生活できない世界では、「貨幣からの疎外」=お金がないことが問題になる。お金がないことが、そのまま生活できないことにつながってしまう。「貨幣への疎外」があって、「貨幣からの疎外」が問題となる。それが「二重の疎外」ということだろう。 これを学校にあてはめても、同じことが言える。つまり、「学校への疎外」があって、「学校からの疎外」が問題となる。学校へ行かないと就職が困難になってしまう世界(=「学校への疎外」)では、不登校(=「学校からの疎外」)が問題となる。不登校が問題とされてきたのは、個々人の問題以前に、そもそも人びとが学校へと疎外されてしまっているからだと言える。 不登校から問われてきたのは、「学校からの疎外」の問題だけではなく、そもそもの「学校への疎外」の問題でもあったのではないだろうか。しかし、多くの場合、そもそもの「学校への疎外」は意識すらされていない。お金を稼がないと生きていけなくなっていること(貨幣への疎外)が、おかしいとは思えなくなっているのと同じように。 それでも、たとえばイヴァン・イリイチが「脱学校」とか言っていたのは、「学校への疎外」を問題

キラキラ支援者、キラキラ支援臭

不登校やひきこもりの「支援」にかぎらないのだが、こういう物言いをする人は信頼できないな、と思うことがある。 たとえば、 ・数字を誇る(これまで何人と関わった、など)。 ・権威を誇る(過去のメディア露出など)。 ・断定的に「正解」を示す。 ・ビフォア/アフターで効果を示す。 ・「成功例」ばかり示す。 ・自分への内省がない。 こういう人たちのことを、「キラキラ支援者」とでも言っておこう。 しかし、「キラキラ支援者」的な物言いは、とってもよく見かける。そして、そういう物言いができないから、「商売」が下手なんだと内省してしまう。「商売」だけではない。いつだったか、私の関わるNPOで、寄付を募るための工夫をアドバイスしてもらうという機会があったのだが、そこで提案されたのも、思い返せば上記のようなことだった。1日○○円で○○人の人を救えます、こういう成功例につながりました、ビフォア/アフターを示す、エッジを効かせてアピールしましょう、などなど……。 そのときは、何かおかしいと感じながら、うまく言葉にならなかったのだが、それらは、市場で商品を流通させるには必要な物言いかもしれないけれども、非営利活動や寄付を募ることにまで、市場の論理が入っていることに違和感を覚えたのだと思う。しかし、非営利活動は、市場からはこぼれてしまう問題だったり、市場では解決できない問題に取り組んでいるはずだ。 そして、市場で器用にふるまえない人が、市場からこぼれてしまっている。そういう当事者を、市場でキラキラさせることが「支援」なのだろうか? そこでは、「キラキラ」しないものは「なかったこと」にされてしまう。その抑圧は、とってもタチが悪いと私は思う。 「支援」が、なんらかの「成功」や「解決」につながることを否定しているわけではない。しかし、どうにも薄っぺらい「キラキラ」が鼻につく。そして、非営利セクターまでが、その「キラキラ」に覆われてきていることが、鼻持ちならないのだ。それを「キラキラ支援臭」とでも言っておこう……。

「見える化」より「見えない化」を

子どもの居場所について、印象的なエピソードがある。神奈川県川崎市で「たまりば」を開いてきた西野博之さんの話だ。1991年、西野さんたちは6畳と4畳半のアパートを借りて「たまりば」を始める。そのアパートを借りるのもたいへんで、やっとの思いで確保した自分たちのスペースだったのだが、子どもたちは、初日から天井裏に登って掃除を始めて、掃除が終わると、「ここが私たちの居場所よ」と言ったそうだ。その言葉に、西野さんはたいへんショックを受けたという。 彼女たちは言葉ではそうは言わなかったけど、体を張って「あんたも親や先生と同じだ」と言っていたんだと思うんです。不登校しているあいだ、勉強が遅れないように勉強しようとか、いろんな体験活動もしたほうがいいとか、体も動かしたほうがいいとか、人とコミュニケーションできるスキルを身につけたほうがいいとか、学校に行かなくなって欠けてしまう部分を何とかしてあげなきゃいけないと思ってるんじゃないかって。いいひとヅラして子どもたちに「ゆっくり休んだらいいよ」って言いながら、それだけじゃいけない、何かしてあげなきゃいけないという空気が、僕の毛穴からにじみ出ていたんだろうと思うんです。だから子どもたちは立てこもった。「大人が勝手によかれと思って、いろいろ大きなお世話を焼かないでよ。私たちはホッとしたいんだ」というメッセージが込められていたんじゃないかと思います。 (略)  それからやっと、僕は子どもたちと話し合うことができた。「わかった。よけいなお世話をできるだけ焼かないようにする。君たちがしたいように過ごしたらいい。したくないことは何もしなくていいよ」と取り決めて、僕らはスタートしました。(『居場所とスクールソーシャルワーク』子どもの風出版会2018) 子どもの側に立つというのは、こういうことだったのではないか。子どもとともに場をつくるとは、こういうことだったのではないか。私のささやかな経験に照らしても、そう思う。ただ、正直に言えば、その後、現在にいたるまで、こういうことはどんどん難しくなってきているように感じる。 その背景には、いろいろなことがあるのだと思う。ただ、ひとつ言うとすれば、「天井裏」のような場が子どもの世界からどんどん奪われていて、それゆえに子どもが苦しくなっているのは、たしかなことのように思う。大人の目が届かない

不登校の理由の利用?

不登校の理由について、文科省の調査とNHKの調査では、大きな開きがあると報じられた( NHK2019年5月27日 、 不登校新聞507号 )。 詳細は上記リンク先の記事を参照していただくとして、結論だけ言うと、文科省が行なっている調査は教員が回答しているもので、不登校の要因を本人や家庭状況に求めているのに対し、NHKの調査は中学生本人が回答したもので、教員との関係や校則、部活、いじめなど、学校状況についての回答が多いとのことだった。 文科省の調査に問題があることは、以前から問題が指摘されていたことで、NHKの調査は母数が少ないとはいえ(378人)、注目すべきものだろう。 ●日本財団の調査 もうひとつ、日本財団が昨年12月に発表した調査がある(「 不登校傾向にある子どもの実態調査 」)。こちらも、子ども本人に調査したもので、そのなかに「現中学生に聞いた中学校に行きたくない理由」という項目がある。それによると、不登校(30日以上の長期欠席)の子どもたちの中学校に行きたくない理由のトップ3は、1位「朝、起きられない」(59.5%)、2位「疲れる」(58.2%)、3位「学校に行こうとすると、体調が悪くなる」(52.9%)だった。調査の母数は6500人(有効回答6450人)で、NHKの調査より数はかなり多い。 調査報告では、「身体症状以外の要因では、すべての群で学業に関する理由が見られた」とまとめられ、「学びたいと思う環境」の項目につなげて報告されている。しかし、トップ3は身体症状になっているのだ。その後、日本財団はTwitterを活用して 「#学校ムリかも」から「#ミライの学び」へ というキャンペーンを行なっているが、ここには、どうも誘導があるように感じる。 ●聞く側の耳の問題 不登校の要因について、学校状況をきちんと問わなければならないのはたしかだろう。そのためには、教員が回答している調査をもとにするのではなく、子ども本人に聞いた結果から考える必要はある。しかし、そもそも、不登校の理由を聞くということ自体、本来は問い直されなければならないことだ。 経験則から言えば、多くの場合、不登校の理由なんて、言葉では説明しにくいものだ。頭よりも先に身体が反応して、とにかく「学校ムリ」となってしまう。そういう意味では、日本財団の調査は、私の経験則に

選択肢ができればよいのか?

フリースクール界隈では、よく「多様な学び」と言われるけれども、そもそも「多様な学び」とは何だろう? 私なりの解釈で言うと、学びというのは学校という上から与えられる教育にかぎるものではなく、子どもの自主性や自発性にもとづいて、もっと多様なあり方にひらかれるべきだ、ということではないかと思う。少なくとも、私はそういうものだろうと思ってきた。 しかし、実際問題としては、さまざまな制約もあって、自分たちのできてきたことは不充分きわまりない。とくに、お金や設備などは不充分で、それを何とかするためにも、公的な資金が必要だというのが、教育機会確保法を推進してきた人たちの思いのひとつだろう。 その思いはわかる。しかし、それは教育機会の選択肢のひとつとなれば、解決するのだろうか? 仮に公的支出が出ることになったとして、その選択肢を選ぶのは保護者だ。さまざまな教育サービスが登場し、その競合にかけられていくうちに、消費者ニーズに応え、選ばれるための価値を高めることに躍起になって、気づけば教育サービスの選択肢のひとつになりさがってしまう、なんてことはないだろうか? しかも、そういう競合となれば、結局のところ、資本力のあるところにはかなわないだろう。 さらに言えば、選ぶ主体は保護者であって、子どもではない。少なくとも、サイフのヒモを握っているのは保護者であるから、保護者の意向を無視して、子どもが選ぶことはできない。そして、保護者のほうも、いっしょに場をつくっていくという意識ではなく、消費者として教育サービスを買うという意識になってしまうのではないか。 私が関わってきたフリースクールでは、小さくとも、手づくりで場をつむいできたという実感がある。お金も設備も不足するなかで、できることを工夫し、智恵を出し合う。20年以上前、東京シューレでスタッフをしていたときも、そうだったように思う。それは、ささやかながら、教育サービスを選んで買うのとはちがった、多様なあり方にひらかれた営みだったと言いたい。 もちろん、私たちにも矛盾や葛藤はある。さまざまな意味で、ともに場をつくることは難しくなってきているようにも感じる。とくに、お金の問題は大きい。それでも、そうした営みをあきらめたくはない。どんなかたちになるにせよ、小さくとも、手づくりの場は、営んでいきたい。それは、教育サービスの選択肢に

不登校と選択をめぐる問題――『名前のない生きづらさ』より

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不登校と選択をめぐる問題について、『名前のない生きづらさ』第2章に書いたものを抜粋しておきたい。 *  *  * ・不登校の当事者運動のなかでは、学校に行かないことを、フリースクールやホームエデュケーションに置き換えることで、学校に対置しうる教育(=選択できるもの)として位置づけようとしてきたと言える。ここに、問題がねじれてしまう、最大の要因があるように思う。 ・不登校という名前は、それ以前に比べれば淡白になったとは言え、やはり、そこには学校に行かないことを異常視するような、名づける側のまなざしがある。しかし、それを周囲がフリースクールやホームエデュケーションなどの名前に置き換えて、世間に理解しやすいストーリーに組み替えてしまうことも、本人不在になってしまうと言えるだろう。 ・子どもが学校に対してノーを示していることに対し、それを親や周囲が選択の問題としてしまう。そこにねじれがある。子どもにとって、不登校は選択の問題ではない。不登校を選択の問題としてしまうと、現実からズレてしまう。 ・私自身の経験で言えば、学校に行かなくなった子ども(親ではなく)がまず求めるのは「居場所」だろうと感じてきた。それは逃げ場とも言えるし避難所とも言える。それを家に求める場合もあれば、家の外に求める場合もあるが、いずれにしても「選択」というのとは、ちょっとちがう。逃げ場や避難所としてのフリースクールが、教育の選択肢となってしまったら、それは子どもの逃げ場を失うことにもなる。 ・「居場所」と言われてきたさまざまな営みは、不登校やひきこもりをはじめ、この商品社会でやっていけないと感じた人たちが、おのずと培ってきた土壌だ。それぞれは小さくとも、それは、人が生きていく足場となりうる。私はそう感じてきた。だから、そこに商品化の視線が及ぶことに、抵抗を感じるのだ。 ・商品化社会は、商品にならないものを毛嫌いする。すべてのものを商品価値に一元化しようとする。ミヒャエル・エンデの『モモ』でいう、“灰色”の世界だ。数値目標、成果主義、自己評価……そういったものが、気づかぬうちに、あらゆる領域に入り込んでいる。NPOだとか、フリースクールなども例外ではない。この人までそんなこと言うか、というようなことも増えてきた。私たちが大事にしたいと思ってきたことは、「ムダ」なことだったり、「