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もはや「学校」の外はない

フリースクールなどは、学校外の学び育ちの場と言われてきたが、もはや「学校」の外はなくなってしまったように思う。評価のまなざし、子どもをコントロールしようとする網の目は、学校の中だけではなく、その外にもくまなく張りめぐらされている。 それは、「学校」という壁がなくなるということでもあって、いまや公教育は全面的に市場化されようとしていると言えるだろう(経済産業省「未来の教室」プロジェクトに顕著であるように)。 そうなると、不登校したところで、「学校」から逃げることはできなくなってしまう。学校に行かないことも多様性のひとつとして認められるとは言えるかもしれないが、一方で、みずから評価されるようにがんばり続けなければならず、がんばっている人のみが存在を認められる。 そうしたなか、かつて不登校運動のなかで語られていたような「ありのままでいい」だとか、「人を評価するな」といった対抗言説は、すっかり力を失ってしまった。フリースクールなどは、そういう対抗の足場ではなく、むしろ学校よりも市場に親和的な場として、古い学校システムを解体し、公教育を市場化していくための道具とされてきている(教育機会確保法で顕在化したように)。 全面的に市場化してしまった社会のなかでは、市場に役立つことだけが価値とされ、人がそれ以外の価値尺度に立つことができなくなっている。そのため、市場価値を内面化して、みずから市場の役に立とうと果てしなくがんばり続けることになってしまう。だから、評価がますます重要になって、もっと評価してほしい、学校に行かなくても正当に評価してほしいということになる。そして、がんばれない人、あるいは低く評価される人は自己否定せざるを得ない。 かつてと比べれば、不登校は容認されてきているのに、子どものしんどさが増しているように思えるのはなぜなのかと聞かれることがままあるが、いま、起きていることは、そういうことなのだと思う。 〈服従〉というのは、自分の外にある権力に従うことで、そこには不服従という対抗もある。しかし、権力を内面化して自発的に従う〈隷従〉になってしまうと、そこには対抗もなくなってしまう(たしかドゥルーズがそんなことを言っていたように思う)。 私たちは、どうしたら、この隷従から逃れることができるのだろう? 自分が隷従に置かれていること、市場価値をすっかり内面化し、いわば洗脳されてい