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学校が「生きジゴク」になったころ

『おそい・はやい・ひくい・たかい』 No.90の特集は発達障害。80年代に小中学生を過ごした経験からの原稿をという依頼があって、執筆させていただきました。編集部の了解を得て、下記に転載します。 ●いっせいにいなくなった同級生 80年代は、すっかり懐メロ的な時代になってしまいましたね。氣志團みたいなヤンキーに、聖子ちゃんカットの女子があふれ、「おいしい生活」を求めて、みんながバブルに向かってまっしぐらな時代……古き良き時代となつかしむ人もいるでしょう。でも、一方では、鹿川裕史くん(当時13歳)が「このままじゃ生きジゴクになっちゃうよ」と遺書を残して自殺したように、80年代はいじめ時代の幕開けでもありました。 私自身のことを言えば、1973年に埼玉県の郊外住宅地で生まれ、育ちました。第二次ベビーブーム世代で、近所は同年代の子どもだらけ。クラスには農家や自営業の家の子もいましたが、家の近所はほとんどがサラリーマン世帯でした。小学校に入学したのは1979年。そう、養護学校が「義務化」した年です。 小学校1年生のとき、同じ学年に「障害」を持った子は何人かいました。なかでもよく覚えているのは山田くんで、ものすごく大きな身体で、廊下でウンチをしていたのは強烈に覚えてます。というのも、私もウンチやオシッコを教室で漏らしてたもので、堂々と廊下でウンチをしていた山田くんには、びっくりするとともに、ひそかに仲間意識を覚えてました。 ところが、その子たちは、小学校2年生にあがるとき、いっせいにいなくなってしまいました。それが教育制度の影響によるものだったと知るのは、自分が大学生になってからのことでした。その後、学校が「生きジゴク」と感じるような息苦しさを強めていくのは、このとき「異質」なものを排除したゆえだったのかもしれません。 ●学校という「箱」 ヤンキーたちが暴れまわり、校則管理や体罰が横行し、いじめが陰湿化し、そうした学校に嫌気がさして登校拒否しても、戸塚ヨットスクールみたいなところに入れられて、スパルタ訓練させられる……。思い出すほど、あまりいい時代のようには思えません。学校という「箱」がとっても息苦しいものになって、そこで暴れる人と、ガマンしたままいじめに走る人と、そこから逃げ出す人がいて、教師はそれを何とかしようとシャカリキにがんばっていたのかもし

書評:『キリンの子』鳥居歌集

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歌人の鳥居さんが歌集『キリンの子』を上梓された。差し出がましいようだが、少し書評(?)を書いてみたい。 たとえば震災などがあったとき、被災しなかった人でも、報道などで事実に接するだけで胸が騒ぐ。それは被災者の苦しみ、痛みに共感するからでもあろうし、自分の日常が揺るがされ、そのはかなさ、もろさを突きつけられてしまうからでもあるだろう。いずれにしても、日常にパックリと開いた穴からは、不穏な風が吹きつけてくる。 鳥居さんの存在(その経験も含めて)は、それ自体が震災のような作用を人にもたらす。深い共感を引き起こす一方、「こんなのはウソだ」と否認する人もいれば、「特別な人だ」ということで、自分の日常からは切り離したうえで賛美したりする人もいる。 それが、鳥居さんの過去の経験だけで引き起こされているのであれば、鳥居さんの存在は、凄絶な過去を背負った、かわいそうな女性のストーリーとして、一時的に消費されて、忘れ去られてしまうだろう。しかし、鳥居さんの凄みは、自身の経験から見えた世界を、短歌という、たった三十一文字に結晶化させ、私たちの日常をスパスパと斬ってみせていることにある。 たとえば太宰治の小説を読んだとき、これは太宰の実体験なのか、小説なのかと、とまどった経験を持つ方も多いだろう。でも、それが実体験であるかどうかは、あまり大事なことではない。雑多な事実に縛られて書くよりも、事実を結晶化させた作品は、より真実を描いていると言える。その肌触りに、人はぞっとしつつも、惹かれるのだ。 鉱石は、自然界にあるままでは石ころだ。それを高熱でどろどろの液状に溶かし、金属を抽出して、はじめてその性質を発揮する。それは人を殺める道具にもなれば、調理器具にも、宝飾品にも、貨幣にもなる。 鳥居さんは、いわば高熱をくぐり抜けた金属だ。そしてその短歌は、金属をさらに鍛錬して加工した刃だ。しかも、すこぶる鋭利で切れ味がよい。そしてまた、鳥居さんの短歌にも、刃物がよく出てくる。それは偶然ではないだろう。 ただ、刃物は使い方をあやまつと、人を傷つける道具にもなる。可能性は常に、危険性と裏腹にある。その危険な香りだけを文学だと思う人もいるだろう。でも、鳥居さんには、その危険をもくぐり抜けて、生を根本から肯定する強い意志がある。だからこそ、その刃は錆びない。三十一文字に鍛え抜かれた

議論はどこに? 条文案が発表されたが……

3月4日、教育機会確保法案の 条文案 が発表された(超党派フリースクール等議連連盟・夜間中学等義務教育拡充議員連盟合同総会)。 すでに2月2日に 骨子案 は示されており、この間の立法チームでの議論を踏まえたうえで、今回の条文案が発表されたはずである。しかし、どこに議論が反映されているのか、私が読んだかぎりではまったくわからなかった。議員連盟では、この案をもとに、さらにヒアリングを行ない、検討すると言うが、1カ月にわたる議論が反映されていないのであれば、さらに何を検討するというのか、疑問を覚えざるを得ない。 今回、条文案で明らかになったのは、不登校の定義だ。以下のように定義されている。 不登校児童生徒:相当の期間学校を欠席する児童生徒のうち、学校における集団の生活に関する心理的な負担その他の事由のために就学困難な状況として文部科学大臣が定める状況にあると認められる者。 集団生活への心理的な負担が、不登校の主たる理由となっている。不登校を子どもの心理の問題とするのは問題だが、その以前に、教育機会の確保が法案の目的であるならば、長期欠席のうち、ことさら「不登校」だけを抜き出して、定義づけることはおかしいのではないか。 また、すべて削除されていた「多様な」という文言も盛り込まれたと言うが、「不登校児童生徒が行う多様な学習活動」といった文面であって、現状について形容されたにすぎない。法律上の意味は皆無といってよいだろう。 以前に述べた意見 のくり返しにしかならないが、「多様な教育」にしろ、「教育機会の確保」にしろ、「休養の必要性」にしろ、すべての子どもにとって必要なことであって、ことさら「不登校」を定義づけて、位置づけるべきものではない。そもそもの法案の建てつけに問題があるのだから、法案は条文修正ではなく白紙撤回し、出発点に立ち返って、考え直すべきだろう。 *3月4日のようすや配布資料などは、下記でも報告されている。 ・ 勝山実「鳴かず飛ばず働かず」 ・ フリースクール全国ネットワーク