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「逃げる」と「選ぶ」

不登校をめぐって、「つらかったら、学校から逃げてもいい」「学校外にも学ぶ場はあるから選んでいい」ということが、よくメディアで流布されるようになった。しかし、「逃げる」と「選ぶ」は筋のちがう話で、どうも混同があるように思えてならない。 「逃げる」というと、ネガティブな行動に見られがちなので、「不登校は逃げじゃなくて選択なんだ」と言いたくなる気持ちはわかる。けれども、逃げることはネガティブであっても必要なことで、積極的に学校外で学ぶという「選択」でなければ逃げることさえできないということになれば、かえって逃げ道をふさぐことにさえなりかねない。 何も積極的な意味などなくても、ときに逃げることは必要だ。逃げることを否定視するまなざしこそ、問い返さなければならない。 また、不登校をしている人のなかには、一時的には逃げても、学校外で学びたいわけではなくて、学校にもどりたいという気持ちの人も数多くいる。いずれにしても「学校しかない」という見方は相対化される必要があるにちがいないが、そういう気持ちを「学校にこだわっている」という見方で切り捨ててしまってはいけないだろう。 私も、学校以外に多様な学び場は必要だと思うが、それと不登校とは、重なる部分はあっても筋のちがう話だ。それを混同して語るとき、「逃げる」ことは、かえって抑圧されてしまうのではないか。そう思えてならない。 >関連記事 ・「行けない」と「行かない」 ・不登校の認識で誤解があると思うこと ・「不登校は○○じゃない」という呪縛 ・選択ストーリーにさよならを

不登校の観光地化?

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ここ数年は観光客の増加で、大阪でもあちこち風景が変わった。たとえば大阪城公園とか黒門市場とか新世界とか、観光地になっているところに行くと、たくさんの外国人が訪れている。それはよいのだが、観光客に合わせて、街の風景も変わった。まるでブレードランナーに出てくる架空の日本人街のように、デフォルメされ、ジャポニスム感が強調されている。お店には、侍アンブレラ、着物姿のキティちゃん、金ピカのビリケンさん、忍者グッズなどの数々があふれかえっている。 観光客の期待に応えようと、デフォルメされ、商品化され、過剰に演出された風景。日常がラッピングされてしまっているかのような、きらびやかさと裏腹の息苦しさ。 自分の生活圏のところでは、その矛盾がよく見える。しかし、自分たちがどこかの観光地に行けば、ラッピングされた風景を見て、写真を撮り、地元の人は食べたこともないようなお菓子を買ったり、これみよがしのおみやげを買って帰ったりしている。 それが悪い、ということではないかもしれない。しかし、何かがおかしい。どこもかしこも、観光客を誘致しようと、自分たちをデフォルメし、ラッピングする。観光客の期待に応え、求められる姿を演出する。そこで抑圧されてしまうのは、もともとの地元の生活だったり、日常性だったり、そこにある複雑性だろう。 過剰にデフォルメされた風景を見ながら、ふと思った。これは、不登校がメディアでとりあげられるときの違和感と似ているのではないか。 メディアでは、多数の人にわかりやすいように、事実が単純化され、あるいは演出され、あるいは一部の事実がデフォルメされて伝えられる。ラッピングされて、パッケージ化された語りが、商品のように流通する。まるで、地元の人が食べないお菓子のように。きらびやかさと裏腹の息苦しさに、当事者から「なんか、ちがう」という小さな声があがっても、そうした声はなかったかのように、不登校のイメージが流通していく。 それが「よい」イメージであれ、「悪い」イメージであれ、メディアに流通するのはラッピングされたイメージだ。そして、不登校やひきこもりと犯罪を短絡的に結びつけた報道であるとか、「悪い」イメージに抗議の声があがることはあっても、「よい」イメージには声もあげにくい。 メディアで不登校のことが大きくとりあげられるときというのは、さながら観光客がど

「行けない」と「行かない」

不登校は、「学校に行かない・行けない」と表されることがある。自分の意志で「行かない」のか、それとも「行けない」のか、どちらとも言いがたく、並記するような表し方をしたりする。 この「行かない」と「行けない」では、世間のまなざしはだいぶちがうように思う。いじめや体罰などがあって不登校になった場合、「死にたいくらいつらいのだったら、学校から逃げてもいい」ということが、近年はよく言われるようになった。 しかし、「なんとなく行きたくない」とか「自分でもよくわからないんだけど行けない」ということだと、なかなか認めらず、結局は「死にたいくらい」つらくなるまでがんばらないと認められないというのが現状かもしれない。 あるいは、学校に価値を見いだせず、みずから行かないということだったりすると、世間から強い反発を買ってしまう。「行けない」は認められても、「行かない」は認めがたい。そこには、とても根の深い、不登校への否定のまなざしがあるのではないだろうか。 たとえば、シングルマザーに対する世間のまなざしも、未婚・非婚、離別、死別では大きく異なる。死別だったら「たいへんね」と同情されるが、離別だったら「あなたにも問題があったのでは?」「もう少しガマンできたのでは?」となるし、未婚・非婚だったら、「好き勝手にひとりで子どもを生んだのだから」と、自己責任を問われることになる。たぶん、そこにあるのは「自分たちはこんなにガマンしているのに、好き勝手しているヤツは許せない」という心情だろう。 不登校の場合も、やむなく「行けない」のであれば同情されるが、「行かない」のは好き勝手にやっているのだからと、自己責任を問われてしまう。その場合、認められるためには、ただ「行かない」のではなく、積極的に学校外でもこんなに学んでいる、という成果を示さないといけなくなってしまう。 フリースクールなどの関係者が、「不登校」を「学校外の学び」に置き換え、選択肢にしようとしているのには、そのあたりの問題が背景にあるように思う。しかし、「不登校」と「学校外の学び」は同じものではない。 不登校が、同情から認められるのはイヤだという気持ちはわかる。しかし、学校外で学んでいるのだからと、学校外の成果で認めさせようというのも苦しいことだと私は思う。それでは、不登校を否定視するまなざしはそのままに、かたちを変

個別学習計画案の撤回を要望

個別学習計画案の撤回を求めて、要望書を立法チームにいた議員8名(下記)に送りました。 意見のある方は、送ってみてはいかがでしょう。以前に聞いたところでは、ファックスが一番届きやすいそうなので、ファックスの連絡先を紹介しておきます。 議員 政党 FAX 河村建夫 自民 03-3502-5085 馳 浩 自民 03-3508-3609 浮島智子 公明 03-3508-3740 笠 浩史 未来日本 03-3508-7120 神本美恵子 立憲民主 03-3508-0010 牧義夫 国民民主 03-3508-3258 畑野君枝 共産 03-3508-3707 吉川元 社民 03-3508-3856 *  *  * 個別学習計画案の撤回を求めます 2019年5月27日 山下耕平(NPO法人フォロ事務局長) 教育機会確保法の成立3年後の見直しにあたって、馳浩議員より「個別学習計画」を盛り込むことが提案されたとうかがいました。ご承知の通り、この案はもっとも論議を呼んだ部分であり、反対意見も強かったものです。私自身、立法チームのヒアリングでは強い懸念を示してまいりました。新しい案を拝見しても懸念すべき点はまったく変わりませんが、あらためて意見申し上げます。 1.保護者と子どもを追いつめることになる 個別学習計画は、保護者に学習の場の選択権をゆだねていますが、子どもと保護者のニーズは一致するとはかぎりません。とくに、子どもが不登校になった場合、保護者は勉強をさせたがりますが、子どもは何より休むことを求めていることが多くあります。また、保護者も、子どもが不登校になったことによって周囲から責められることも多く、不安や焦りから子どもを何とかしようと追いつめられがちです。個別学習計画は、いかに任意とはいえ、保護者を追い立て、子どもを追いつめるものになると懸念します。 2.子どもの逃げ場を奪うことへの懸念 多くの子どもたちが不登校となる背景に、子どもたちが教育評価的なまなざしでのみ自分のことを見られることに疲弊しているという問題があるように思います。不登校は、そのまなざしからの撤退だとも言えます。フリースクールなどの役割は、その撤退を保障するという面があり、いわば「居場所」としての機能を果たしてきたところがあります。個別学習計画

教育機会多様化神話

教育機会確保法だとか個別学習計画というのは、いまの社会を前提として、そこに適応させるための手段を多様化しようという話だ。そういう意味では、「学校に行かなくても社会ではやっていける」という言説とは相性がよいのだろう。 しかし、私は「学校に行かなくても社会ではやっていける」という言い方はやめるべきだと言ってきた。なぜなら、それは学校だけを問うて、社会のあり方を問わないからだ。 不登校やひきこもりを否定視する価値観と対峙しないまま、方法論としてのみ、教育機会を多様化させるというのでは、そのツケはどこかでまわってくるだろう。原発安全神話ではないが、教育機会多様化神話とでも言っておこう。 かつて、学校を絶対視する風潮は「学校信仰」と言われていたが、いまは「学校信仰」が揺らいだ代わりに、別の神話が信仰されていると言ってもいい。 かつてと比べると、「教育機会多様化神話」は世間に流通するようにはなったが、不登校という問いに立つならば、この社会でやっていけない側に立ち続け、やっていけない社会のあり方を問い直していくことが必要だろう。どんなに苦しくなっても、そこに立っていきたい。

推進する側こそ撤回を求めるべきでは?

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2016年に成立した教育機会確保法の3年後の見直しにあたって、馳浩衆議院議員から、当初案にあった「個別学習計画」の復活が提案されたという。 個別学習計画がどういうものかと言うと、保護者が作成して教育委員会に申請し、教育委員会が認定すれば、それが就学義務の履行と認められ、保護者に経済的支援をする(努力規定)というものだった。そして、計画の認定された児童生徒は、学校から籍が外され、教育委員会に籍が置かれ、卒業については、教育委員会が認定して「修了証書」が出されることになっていた。 この法律をめぐって、もっとも議論を呼んだのがこの部分であり、成立した法律は、この個別学習計画を外して成立させたものだった。いわば本丸を外したのだから、ほぼ別の法律になったとも言える。それを復活させようというのだ。 私が当初案について批判したのは、下記の3点だ。 1.義務教育民営化への懸念。 2.権利主体の問題(親と子でニーズは異なること)。 3.教育評価のまなざしが細分化・強化されることによって、子どもの逃げ場が奪われること。 とくに、民営化への懸念は具現化してきている。 クラスジャパンプロジェクト 、 palstep 、経済産業省の進める「 未来の教室実証事業 」など、民営化の動きは津波のように押し寄せている。個別学習計画は、何よりも義務教育民営化のための手段だと言えるだろう。 ●あらたな試案の問題点 反対意見は、ほかにもさまざまにあったが、くりかえすのはやめておこう。ここでは、「多様な学び」を推進しようとしている側にとっても、今回の試案で問題になると思われる点を書いておきたい。 今回の試案には、個別学習計画に「 学校教育法第21条 の10項目」が入っているほか、「ICTを活用した学習ログの蓄積と分析」があり、それをもとに個別学習計画を「常に最適化するサイクルの構築」することが図示されている。 ・10項目とは? 学校教育法第21条の10項目というのは、2006年の教育基本法「改正」にともなって、義務教育の達成目標として組み込まれたものだ。くわしくは リンク先 を参照してもらうとして、たとえば第3項には「我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養う」ことが入ってい

不登校の認識で誤解があると思うこと

不登校の認識で誤解があると思うこと、その1。 不登校は無登校ではない。不登校数14万4031人(小中学生/2017年度)のうち、出席日数が10日以下の人は1万6074人。不登校全体の1割ほどだ。 その2。 不登校のうちフリースクールなどに通うのは4200人(文科省調査2015)、不登校全体の3.5%で、しかも都市部に偏在している。しかし、不登校についてはフリースクール関係者の代弁する声が大きかった(自戒を込めて)。 その3。 不登校と「多様な教育機会の確保」を結びつけたいのは、一部の人たちの声でしかない。反対意見が当事者を代弁しているともかぎらないが、少なくとも、多様な意見があるのはたしかだ。    *  *  * 教育機会の多様化(という名のもとの民営化)は、不登校の子どもたちのニーズではなく、教育産業関係者のニーズだろう。そのために、不登校を利用しているようにしか思えない。「個別学習計画」を望んでいるのは、教育産業関係者だ。 私見では、不登校の子どもに教育機会を確保しようとするよりも、すべての子どもに不登校機会を確保することが必要だと思ってきた。誰もが安心して不登校できる学校にすること。不登校機会確保法、別名不登校助長法なら、あってもいいかも(法律なんていらないのだけど)。

「不登校は○○じゃない」という呪縛

不登校は怠けだと言われたら、「不登校は怠けじゃない」と言い返すのではなく、「怠けて何が悪い」と言い返したい。 不登校は病気だとまなざれたら、「不登校は病気じゃない」と言うのではなく、「何を病気と見ているのか」と問い返したい。 不登校は不幸だと誰が言ったか知らないが、「不登校は不幸じゃない」と言うのではなく、「学校に行かないことで不幸になるような社会はおかしい」と言いたい。 不登校だと学んでいないと見なされるのはたしかだろうが、そういう人たちに対して「学校以外でもリッパに学んでます」と言うのではなく、そういう上っ面で人を評価するまなざしを問い返したい。 いずれにしても、「不登校は○○じゃない」という言い方では、「不登校は○○だ」という呪縛に対して、その価値観の根っこを問うことはできない。 「不登校は○○じゃない」は、もうひとつの呪縛だ。 教育機会確保法を求める人たちにも、同じことが言えるだろう。教育機会確保法は、学校に行っていない子どもを教育で呪縛する法律だ。 先日、教育機会確保法の見直しで、「個別学習計画」を復活させる案が出たという。これは「個別教育呪縛計画」とも言えるだろう。こんなものを成立させてはならない。

ボーッと生きていたいのに、イタタタタ。

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チコちゃんには叱られそうだが、ボーッと生きていたい。 というか、どんなにボーッとしていても、身体は生きてくれているというのは、すごいことだと思う。心臓や胃腸などはもちろんのこと(不随意筋)、手足だって、自分の意志で動かしているようで、意外とボーッとしていても動いてくれているものである。歩いているときに、いちいち考えながら足を出していないし、着替えるときに、いちいち動作を考えたりしていない。 ところが、四十肩になって、ふだんの動作に支障が出ると、とたんに考えなくてはならなくなる。思うように動かないということもあるが、いつものようにボーッと動かしていると、激痛に見舞われてしまったりするのだ。 痛いから気をつけようと思っていても、不意に激痛に見舞われるパターンがふたつあることに気づいた。ひとつは寝返りで、これはどうしようもない。夜中に激痛で目覚めることしばしばだ。もうひとつは、物が落ちそうになったときなど、反射的にパッと手を出してしまうとき。これも意識的に止めることは難しい。 痛いことが一番困っているのだが、もうひとつ、困っていることに気づいた。ふだんは意識せずに済んでいる動作を、いちいち考えなくてはならないことが、めんどうくさい。着替えるときは、右から先に袖を通していたのを、左から通す。リュックを背負うときもしかり。身体を洗うとき、ちょっと背中を掻きたいとき、調理をするときなどなど、いちいち意識して動かすことになってしまった。 慣れてくれば、また考えなくてもできるようになるのだろうけれども、ボーッとしていてもできていたことが、いちいち考えて動かさなくてはならないというのは、地味にストレス度が高い。 そういう意味でも、人間が意識してできることなんて、かぎられた範囲のことだと思う。私たちは、ふだんは意識してなくても動いてくれている、さまざまのことに乗っかって生活しているのだ。ボーッとできることのありがたさを思う。 夜になって、またチクチクさんがいらっしゃっているが、今夜は少しでも安眠できますように。 写真は昨年(2018年)秋に、奈良県明日香村のかかしロードにて撮影。

四十肩、痛み、ゆだねる。

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今年に入ったあたりから、どうも腕が上がりにくい、違和感があると思っていたら、だんだん痛くなってきて、立派な四十肩になった。五十肩とも言うそうだが、現在46歳の私は四十肩ということにしておこう。 腕が後ろにまわらないので、着替えるのも不便だし、リュックを背負うのも不便だ。ややもすると激痛が走る。四十肩が痛いとは知らなかった。何ごとも他人事のうちは関心の薄いものだ。 この痛いのが困る。上腕のあたりが、何もしてなくてもチクチク痛む。とくに夜間に痛むので、ひどいときは眠ることができない。誰かが呪いの藁人形に五寸釘でも打ちこんでいるのかと疑いたくなる。そこまでではない日でも、寝返りを打つと痛かったりするので、どうしても眠りが浅くなってしまう。そのせいで日中も頭が冴えず、どんよりしている。 何度か、マッサージや鍼をしてもらった。施術してもらうと、肩がまわったり痛みも軽くなったりするのだが、だんだん、また痛くなってくる。基本的には、気長にストレッチしながら、おさまるのを待つほかないそうだ。病気ではないので、そのうちにはおさまっていくという。それが数カ月なのか1年くらいなのかわからないが、経過してくれるのを待つほかない。 「老化の階段くだる~♪ 君はもう四十肩さ♪」という歌が脳内に響いている(ネタがまた古い)。 自力でがんばっても、どうにもならない。マッサージや鍼などでサポートしてもらっても、基本的には経過するのを待つほかない。四十肩にかぎらず、生きていくことにまつわる多くのことは、そういうものなのだろうと思う。がんばれば成果の出ることなんて、ごくかぎられた範囲のことだ。どうにもならないことはたくさんあって、多くの人が、それをなんとかしのぎつつ、日々を生きている。むしろ、どうにもならないことは、そこにばかり意識を向けるのではなく、ほかに意識を向けるということも大事なのだろうと思う。 AA(アルコホリック・アノニマス)の12ステップにならって、「私たちは四十肩の痛みに対して無力であり、どうにもならなくなったことを認めた」とでも言っておこう。ハイヤーパワーだか神だか仏さまだかわからないけれども、そこにこの痛みをゆだねたい。 と言っているそばから、チクチクしてきた……イテテテ……。