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不都合な事実と向き合うための作法

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前回の記事 で、見たくない不都合な事実と向き合っていくためには、何か作法のようなものが必要ではないか、と書いた。では、どういった作法であれば、不都合な事実と向き合っていくことができるだろうか。まずは、思いつくままに書き出してみたい。 ●不都合な事実と向き合うための作法 ・自分は見たいものだけを見てしまうものだと自覚すること。 ・見たくない事実を見るには、自分だけでは無理だとわきまえること。自分だけに抱え込まず、他者と共有して考え合い、団体の場合は、問題を団体の外に開いて考えること。 ・被害の訴え、問題指摘、批判などに対しては、脊髄反射的に否定しないこと。できるだけ予断なく、虚心坦懐に話を聞くこと。また、自分の価値観で決めつけないこと(それぐらいたいしたことない、など)。 ・被害の訴えなどのあった場合、安易に被害者の心理や認知の問題にしないこと。 ・自分も「まちがっているかもしれない」というわきまえを持ち、自分の感覚をあたりまえにして押しつけないこと。 ・客観・中立を装わないこと。どんな場や人間関係にも力関係があることを踏まえ、常に力関係の弱い側に立とうとすること(客観・中立の態度は、力関係の強い側に立つことになりやすい)。 ・大義や大きな目的のために、足下で起きた問題を抑圧したり軽視しないこと。 ・自分の意識を世間のほうに向けないこと(評判リスクの問題にしないこと)。 ・「まさか、あの人が」バイアスに要注意。「仲間」の問題を見て見ぬふりをしないこと。 ・問題と人格は分けること。人格をおもんぱかって、その人の起こした問題を見ないことにしたり、逆に、問題を起こした人の人格を否定して、排除するだけにしないこと。 ・問題を起こさないように管理するだけではなく、問題が起きたときに否認せず、きちんと対応できるように考えること。 ・かといって、問題だらけでOKと開き直らないこと。 ・日ごろから、他者からの批判、異論、ノイズなどを大事にすること。自分のいる場の同調圧力、ウチ意識、権力性をゆるめておくこと。個人が自分の意見を言いやすい風通しのよさを心がけておくこと。  * * *  よくある行動指針や倫理規定などのガイドラインは、問題が起きることの予防を目的に、禁止事項を盛り込んでいることが多いように思うが、ここに挙げたのは、何か起きてしまったとき、それが自分や自分のかかわる団体にと

見たくないものを見るには

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かつて、「ほしいものが、ほしいわ」というコピーがあった。バブル全盛期のころの西武百貨店の広告で、糸井重里のコピーだ。商品も情報もお金もあふれかえって、ぶくぶくしていた時代の空気をあらわすコピーだったのだろう。しかし、その感覚は、いまにいたるまで続いているようにも思う。 少し前の朝日新聞で、社会学者の宮台真司が、「見たいものだけを見る」意識が、安倍政権を支えてきたと語っていた(「耕論」朝日新聞2020年9月15日)。一部の経済指標だけで成長を謳うアベノミクス、その一方で実質賃金は低下し、子どもの幸福度も低く、社会の劣化は進んでいる。一見、豊かに見える「疑似包摂社会」のなかで、格差や分断は確実に進んでいて、しかし、その痛みは自己責任になっていて、自意識の問題として回収されてしまっている。それを宮台は「自意識による粉飾」だと語っていた。見たいものだけを見て、痛みや苦しさは「自分のせい」として閉じ込めてしまう。たしかに、そういう面はあるように思う。 自分自身にも、「見たいもの」ばかり見ているところはある。たとえば自分のSNSを見ていたら、自民党や維新の会の支持者は少ないし、新自由主義には反対するのが当然で、社会民主的な政策を支持している人がマジョリティのように見えてしまう。よく言われるように、ネット空間はタコツボ化していて、「見たいものだけを見る」自意識はエスカレートしてしまいやすい(エコーチェンバー現象)。それは特定の思想の人の問題ではなく、自分自身を含め、どこでも起きていることにちがいない(自分だけはちがうと思う人のほうが危ない)。 ●消費者ニーズには応えても…… 逆に言えば、「見たいもの」を見せていれば、商売にはなる。「見たいものを、見たいわ」に応えていれば、消費者のニーズを満たすことができる。いかに「見たいもの」を見せるかといったスキルは、いま、あらゆる領域に浸透しているように思う。 たとえば学校でも、運動会の組体操が巨大化して事故が頻発してしまったり、部活動がエスカレートして「ブラック部活」化してしまう背景には、保護者が消費者化していて、その消費者ニーズに応えて「見せ場」をつくろうとしてきたことがあるという。あるいは、卒業式や「2分の1成人式」などでは、保護者へのサプライズの手紙を書かされるなど、「感動の演出」がはかられているという。子どもは、そこでは消費者(保護