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ヒアリング報告-2

昨日の「教育機会確保法案」立法チームについて、もう少し報告しておきたい。 ヒアリングに呼ばれたのは、フォロのほか、全国夜間中研究会、京都市教委、全国都道府県教育長協議会の計4団体。出席した議員は、(自民)丹羽秀樹、青山周平、下村博文、(民主)林久美子、笠浩史、(共産)田村智子、畑野君枝、(公明)浮島とも子、(社民)吉川元の9名だった。 まず、法案については、理念が根本的に変更されたことについて、ていねいに説明されるべきだという意見が田村議員から出され、次回に丹羽座長から説明されることになった。また、骨子ではない条文案も出される見込みのようだ(次回の日程は聞いていない)。 ヒアリングについては、ほかの団体の意見について、きちんと報告できるだけのメモを残していないので、自分の意見( 配布した意見書 以外)と、受けた質問への応答について報告しておきたい。 ○意見書に書いてないことで述べた意見 ・不登校は統計開始から今年で50年になる。半世紀にわたって「問題」であり続けた課題だが、それは不登校が問題というのではなく、学校制度が根本から問われている問題。 ・たとえばブラック企業が問題なのも、休むことができないで働いていることにある。そのため、過労死やうつ病などの問題が起きている。学校も、いわばブラック化していると言えるのではないか。たった年間30日休んだだけで、生涯にわたる問題と思えてしまうような学校のあり方や、学校と社会との接続のあり方は、根本的に問い直されないといけない。 ・教育の多様性も、休息の必要性も、すべての子どもにとって必要なものである。不登校に限定した法案の建てつけはおかしい。 ○質疑 (複数の議員の質問が重なっているので名前は省いた) Q.教育委員会や関係機関との連携の実際について聴きたい。 不登校が問題視されていることが、本人も保護者も孤立させてしまっているのではないか。孤立は問題であると思う。教育委員会との連携はできていないが、関係機関との連携は重要と考えている。助成金を得て、この3年ほど、ソーシャルワークの研修を積み重ね、ネットワークをつくっている。件数はまだまだ少ないが、ケース会議などに参加することもある。それは、どちらかといえば福祉的な枠組みと言える。「未然防止」「早期発見・早期対応」などと不登校を問題視する

ヒアリングで述べた意見

本日、「教育機会確保法案」立法チームのヒアリングで発言してきた。 まず、条文については、公開してもよいとの確認を得たので、下記にアップしている。 →条文骨子(2016.02.02) →新旧比較 それから、とりいそぎ、私が述べた意見(配布したもの)を下記に流しておきたい。 もう少し詳しい報告は、あらためて。 ……………………………………………………………………………………………………… 教育機会確保法案への意見 2016年2月16日   NPO法人フォロ 山下耕平 1.個別学習計画の削除について 個別学習計画については、懸念や批判がもっとも集まったところで、拙速な制度設計を避け、削除されたのは本当によかったと思います。当事者にとってはもちろんですが、私たちの懸念の一つは、義務教育民営化への懸念でした。先般、ウィッツ青山学園の就学支援金不正受給の問題が持ち上がりましたが、規制緩和や民営化は、かならず負の側面をともないます。きちんとした検証が必要と、あらためて思う次第です。 2.理念について しかし、一方で、基本理念が、現行の不登校政策を前提としたものになったことについては、疑問があります。そもそも、現行の不登校政策では限界がある、もっと言えば、現行の行政の枠組みでは解決不可能だと考えるからこそ、議員立法による制度改革を検討してきたのではないでしょうか。これでは、賛否の前に立法の意味が問われると思います。 不登校政策であれば、あらたな法律は不要と思います。この案では不登校の定義がありませんが、不登校政策として立法化するのであれば、法律で不登校を定義することになるかと思います。これまで、文科省は不登校を「問題行動」と位置づけてきました。そうした不登校の概念を前提として、それを法的にも位置づけてしまうのであれば、かえって、これまでの不登校行政の枠組みは強化され、「多様な教育」の位置づけはゆがめられてしまうのではないでしょうか。 3.休養はすべての児童生徒に必要 今回の条文で「休養の必要性」が入ったことについては評価できますが、休養はむしろ、いまがんばって学校に通い続けている児童生徒にこそ保障すべきだと思います。いじめなどの問題が生じるのも、自殺にまで追いつめられる子どもが後を絶たないのも、休むことが許されない学校のあり方に一因があると

いただいたメール

先日のブログ記事について、さやさんという方から、感想のメールをいただきました。私だけにとどめておくのはもったいないと思い、ご本人の了解を得て以下に転載します。 …………………………………………………………………………………………………… 私は東京在住で、小学校でいじめにあい、中学2年で学校に行かなくなった、不登校経験者です。不登校をして16年がたち、30歳の今、ようやく心身ともに、落ち着いて家で過ごせるようになりました。 山下さんのブログ「迷子のままに」の、 「未然防止? 腐ったミカン? 不登校を減らすと言うのなら」 と、 「休むのは戻ることが前提?」 を、とても興味深く読ませていただきました。 「不登校を選択肢のひとつとして、学校外で学ぶことを認めてほしい」というと、こんどは休むことも許されず、不登校でも学んでいないと認められないことになってしまいがちだ。そうなると、休んだり、逃げたり、撤退するということへの否定的なまなざしは変わらなくなってしまう。 私も不登校をした当時、学校に行かなくても、何か自分の将来につながるようなことをしなければ、というプレッシャーを、すごく感じていました。家に東京シューレの子どもたちの不登校体験を集めた本『学校に行かない僕から学校に行かない君へ』と『僕らしく君らしく自分色』(もう手元にないのですが、こんな題名だったと思います)があり、それを読んで、「不登校をしても、こんなに元気な私たち!」みたいなメッセージを本の内容からビシビシ感じてしまい、〈私もこうならなくちゃいけないんだ〉と思ったのを覚えています(本を作った人たちの意図は別にあったかもしれませんが、私はそんなふうに受けとめてしまいました)。 学校に行かないなら別の場所へ行ってほしい、学校へ行かなくても規則正しい生活をして、何かを学ぶ姿勢をみせてほしい、という周囲の視線に、当事者はものすごく敏感です。 学校に行かなくても、何かをしていなければならない。というプレッシャーを、現在不登校をしている子たちが感じることなく、過ごせているといいんだけど……と、最近の不登校に関する新聞記事を読むたびに、祈るような思いでいます。朝日新聞の1月31日朝刊で不登校が大きく特集されましたが、「未然防止」「早期発見」など、病気に対して使われるような言葉が並んでいたため、「人をな

休むのは戻ることが前提?

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先日のブログ記事 について、ある不登校経験者の方から、「休むって、休んだら、またがんばる(戻る)ことが前提って印象。私の場合は、とにかく好きにさせてくださいよって感じがいちばん近い」というコメントをいただいた。 そうそう、そこが大事なところなんだよなと思いつつ、なかなか言語化して整理しにくいところで難しい。自分の頭を整理するために、もう少し、このあたりについて書いてみたい。 休むことは、不登校している人よりも、むしろがんばって学校に行き続けている人にとって大事なことだろう(ちなみに英語では、欠席=absentに、休む=restという意味はないそうだ)。しかし、不登校している人にとっては、休む=復帰を待たれているというのでは、不登校への否定的なまなざしは変わらないと言える。 逆に、「不登校を選択肢のひとつとして、学校外で学ぶことを認めてほしい」というと、こんどは休むことも許されず、不登校でも学んでないと認められないことになってしまいがちだ。そうなると、休んだり、逃げたり、撤退するということへの否定的なまなざしは変わらなくなってしまう。 水木しげる記念館(境港)にて。軒下で砂かけ婆がお休みでした。 前門の狼、後門の虎のごとし。どっちに転んでも、否定的なまなざしから逃れられない(そのあたりは、貴戸理恵さんが指摘してきたことでもある)。多様な教育機会確保法案をめぐる議論がかみ合わないのも、根っこのところでは、このへんの問題があるように思う。 何事も現実には両面性(多面性)がある。当事者は、その両面性(多面性)の現実を生きている。それは矛盾を生きているということでもあるだろう。ところが、親や支援者など周囲は、自分の価値観に沿った部分だけを拾って、語ってしまうことが多い。そもそも言葉というのは、ある側面しか切り取れないものでもあるが、語られたことの反面を見ないようにしたり、抑圧してしまわないことが大事なのだろうと思う。 そのことをよく自戒したうえで、さらに言えば、不登校というのは、たんに学校を拒否しているというだけではなくて、学校の価値観、いまの社会の価値観(「する・できる」にしか価値がないというような)への違和感が、根っこのところにはあるように思う。そこを問わないまま「休む」といっても「学ぶ」といっても、苦しいのではないかと思う。 社会の価値

未然防止? 腐ったミカン? 不登校を減らすと言うのなら

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「多様な教育機会確保法案への批判はわかった。だけど、現状の不登校政策(未然防止だの早期発見・早期対応だの)は、もっとけしからんじゃないか。それについてはどう思うのか?」ということを、いろいろな人から言われてきました。  たしかに、未然防止だの早期発見・早期対応だの、「不登校はガン細胞扱いなんか?」とゲンナリします。「俺たちは腐ったミカンじゃねえ!」と往年のドラマの台詞でもかましたくなります。中島みゆきの『世情』でも流して、シュプレヒコールのひとつでもあげたくなる気分にもなりましょう(ネタが古すぎてわからない人も多いかと思いますが……)。 そんなに不登校を減らしたいのであれば、簡単に減らせる方策があります。私が文部科学大臣だったら、一瞬にして劇的に不登校を削減してみせるでしょう。どうするのか? まずは年間30日(もしくは50日)までは「不登校」とカウントするのをやめて、すべての児童生徒に休みをとることを積極的に推奨します。これで「不登校」は半減くらいにはなるんじゃないでしょうか? 何日休もうが「不登校」とカウントしなければ、夢の「不登校ゼロ」が実現です。誰もが安心して休める学校は、風通しもよくなって、いじめなども緩和されるでしょう。自殺まで追いつめられる子どもも減るかもしれません。もっとも、休みとなった日を塾通いに費やすなどの問題も生じるでしょうが、平日に部活までこなした後に塾通いしているよりはマシかもしれません……。 「不登校」(年間50日以上の長期欠席のうち病気や経済的理由をのぞいた「学校ぎらい」)がカウントされ始めたのが1966年(91年以降は年間30日でカウント)。50年も血眼になって不登校を数えたてて問題視してきたわけですが、そもそもは、その眼差し自体がまちがっていると見直すべきではないでしょうか? 不登校を立法事実として法案を考えるのであれば、そもそもの不登校の定義の土台から見直したほうがよいと思う次第です。 →関連記事:「誰もが安心して不登校できる学校を」 →関連記事:「休むのは戻ることが前提?」

STOP! 多様な教育機会確保法案@松江

松江で多様な教育機会確保法案についてのフォーラムがあって、いちおう講師として、お話ししてきました(主催:松江不登校を考える会「カタクリの会」、NPO法人 YCスタジオ、不登校・ひきこもりを考える当事者と親の会ネットワーク)。 条文についての話よりも、そもそも不登校とはどういうことで、どういう市民活動が立ち上がってきて、法案について何が論点になっているのか、考え合える時間にできればと思って、話しました(使用したスライドを下記に組み込んでみました。うまく表示されない場合は こちら を)。 ↑スライドの▶ボタンだと表示が飛ぶので、PCの→ボタンで進めると、見やすいです。 また、リレートークでは、親の立場から二人、経験者の立場から二人、お話しがありました。ここでも、法案についてというよりも、ご自身の経験から、そもそも「学び」ということについて考え合うことができたように思います。 しかし、法案の立法チームは1月半ばには再開される予定とのことでしたが、どうなったのでしょうね? 法案がどうなるにせよ、きちんと考え合っていかないといけないことが、たくさんあるように思います。