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時間の流れは不可逆だが、季節はめぐる。

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時間の流れは不可逆なのに、季節はめぐる。子どものころから、そのことが不思議でならなかった。イメージとして言えば、直線なのか円環なのか。時間はまっすぐに進んでいるのだろうか、それとも、ぐるぐると円環しているのだろうか。これを考えるだけで、宗教的な世界観まで含めた大きな問題になるのだと思うが、それはさておくとしても、時間の基準は、1年とか1日とか、地球の円周的な動きに拠っている。アナログの時計も、針はぐるぐるまわる。時間の流れは不可逆ではありつつも、まっすぐに流れているわけではなくて、ぐるぐるとめぐり続けているのだろう。 忘年会では、1年のくさぐさは忘れ去って、きれいさっぱり新年を迎えたいと思うが、忘れ去ったつもりのものも、めぐりめぐって還ってくることがある。ちょうど、ゴミとして捨て去ったものが、環境問題として還ってくるように。もちろん、誰しも忘れたいことはあって、「時間薬」というように、忘れることで癒やされるということもある。時間が過ぎ去ってくれるということは、切なくも、ありがたいものだと思う。だけど、忘れていたものが、めぐりめぐって還ってきたときは、自分にとって不都合なものであっても、目をつむらず、迎え入れることが大事なのだと思う。 神道の捉え方では、お盆は荒魂(あらみたま/まだ亡くなって日が浅く、人格を持った魂)が還ってくる時期で、お正月は、和魂(にぎみたま/浄化されて「カミ」になった魂)が還ってくる時期だそうだ。お盆にはかがり火で荒魂を迎えて、精霊送りで黄泉にかえす。お正月には和魂を門松で迎える。きっと、お盆に荒魂を何度も迎え入れているうちに、魂はだんだんと浄化されて和魂になっていくのだろう。忘れられたままでは、荒魂はあらぶってしまうにちがいない。 新しい年を迎えるが、忘れたいことも、忘れ去ってしまっていることも、還ってきたら、ていねいに迎えようと思う。

なたまめの話-4

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伊藤ルイさん、北村小夜さんと渡ってきて、昨年、北村さんからいただた「なたまめ」( なたまめの話1 、 2 、 3 参照)。昨年は遅まきに過ぎて、豆を成熟させられなかったのだが、今年はちゃんと実った。赤と白と2種類あって、それぞれ65粒ほど、あわせて130粒ほどの豆が収穫できた。 さやを割ると、みずみずしい豆がぎっしり。なんとも言えない感触があった。たとえて言えば、赤ちゃんに接したときのようなみずみずしさ。この豆ひと粒ひと粒に、あれだけの蔓を伸ばし、たくさんの豆を実らせるエネルギーが蓄えられているのかと思うと、不思議な気持ちになる。 生命には、適切な条件さえ整えば、みずから伸ばしていく力がある。それを信じたり、大事にしたり、その摂理をよく見ること。それは、たとえば不登校やフリースクールの界隈でも語られてきたことだし、あるいはアナキズムにもつながっているのかもしれない。 ◎大杉栄と権力 伊藤ルイさんの父親で、アナキストの大杉栄は、その昔、吉原を歩いていたとき、通りがかりに何やら酒場で揉めているところに立ち会ったことがあったそうだ。酔っ払った男が窓ガラスをこわしたというので、警察を呼ばれていたのだが、大杉はそこでこう言ったという。「この男は今一文も持っていない。弁償は僕がする。それですむはずだ。一体、何か事あるごとに、いちいちそこへ巡査を呼んで来たりするのはよくない。何でもお上にはなるべく御厄介をかけないことだ。たいがいのことは、こうして、そこに居合わした人間だけで片はつくんだ」。それで店主も男も納得したのだが、巡査だけが逆上して「きさまは社会主義だな」と言って大杉を逮捕したそうだ。 権力というのは、権力に従おうとしない人間を感情的に忌み嫌う。権力に対抗するものを抑圧するだけではなく、権力にびびらない、権力に価値をおかない人間をも忌み嫌う。大杉栄と伊藤野枝が殺されてしまったのは、そういった感情からだったようにも思える。 しかし、いまや権力というのは、個々人の外にあって、人を抑圧するものではなく、個々人が内面化しているものになっている。そこが大杉の時代とは大きく異なるのだろう。権力は、わかりやすい「巡査」などではなく、いたるところに設置された監視カメラや、ネットを通じて収集されるビッグデータなどになっている。 ◎学校の外は自由か 不登校