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「当事者」と「権威」をめぐる、ぐるぐる。

人のことを学歴や肩書きで見るのはおかしい。しかし、実際のところ世間では、人のことを学歴や肩書きなどの「権威」で判断している。「権威」のない人の言うことは、まったくと言っていいほど見向きされない。 その人が有名とか無名とか、「権威」の有無にかかわらず、人の言うことは、その中身で判断されるべきだ。しかし世間では、無名の人、「権威」のない人の言うことには、驚くほど聞く耳を持たない。世間の「権威主義」は、とても根深く、とても根強い。 不登校やひきこもりというのは、学歴や肩書きから(一時的であっても)外れてしまうことでもある。言葉を換えれば、世間的な「権威」がなくなってしまった状態とも言える。 そういうなかで、「権威」を持たない当事者が、自分も「権威」を持ちたいと思うこともあるが、その気持ちは否定できないし、否定してはならないだろう。 あるいは、「権威」ある人から認められたいと思うこともある。たとえば、自分たちの活動が大きなメディアでとりあげられると、社会から認められた気持ちになる。あるいは、著名な人が肯定的な発言をしてくれると、うれしく感じる。その気持ちも、否定はできない。しかし、その話す内容の是非は別にして、大きなメディアだからとか、権威ある人の言うことだから信頼するというのでは、それも「権威主義」と言える。それはややもすれば、「権威」を持たない人への否定のまなざしにもつながってしまうだろう。 当事者のなかでも、高い学歴を得た人、学者になった人、有名になった人など、「権威」を持った人の発言は聞く耳を持たれる。しかし、その場合、「あの人は特別」「あの人は才能があるから」というふうに処理されやすい。 もちろん、無名でも「当事者の声だから」と聞く耳を持たれることはあるが、その場合も、あくまで自分たちとは異なる人たちの声として処理されてしまいやすい。そして、どこか「当事者」を見下すまなざしも隠れていたりする。 また、一部の当事者の声が「権威」となってしまい、メディアなどで代弁されることもあるが、そうした代弁は、一方で多くの当事者に複雑な思いを生じさせてしまうこともある。そして、そういう思いは、得てして抑圧されてしまう。大きく報道されるときほど、抑圧されてしまうものも大きいように思う。 メディアは、それ自体が「権威」となっている。自分たちのことがメ