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なかったことにしてないか。

不登校のことが過熱気味に報道されていることに、もやもやが溜まってしまって、ぶつくさブログに書き散らしてきたが、もやもやする理由のひとつは、デジャブ(既視感)があるからだと気づいた。 90年代半ばごろも、不登校のことは大きく取り上げられていた。それまでの怠けだとか、弱い子だという世間の見方をひっくり返して、学校に行かなくてもいい、学校ではない学び育ちもある、学校に行かなくても社会でやっていけるといったことが、積極的に発信され、マスコミなどをにぎわした。そうした勢いに乗って、不登校新聞も創刊されたと言える。 しかし、一方で、不登校その後を生きている当事者には、苦しい状況を生きている人も多く、並行して、ひきこもりの問題なども語られるようになった。貴戸理恵さんと常野雄次郎さんの共著『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』(理論社2005)など、明るい不登校を語る言説への批判もなされた。しかし、それは炎上してしまい、ちゃんとした議論になることはなかった。 私は、そのあたりをきちんと考えないまま、不登校を肯定することもできないと思い、自分なりに試行錯誤を重ね、考え続けてきた。そのあたりで対話できる機会も模索してきた。不登校50年証言プロジェクトでも、そういう模索をしていた面がある。 常野雄次郎さんにインタビュー もさせていただいた。これを契機に、対立的になっていた関係者との対話の機会ができればとも願っていた。しかし、惜しくも常野雄次郎さんは亡くなられてしまった( そのあたりの経緯は不登校新聞に書いた )。 そうした歴史があるにもかかわらず、それを知る人がいるにもかかわらず、それがなかったかのように、かつてと同じような不登校肯定のストーリーが流されていることに、どうしようもなく、もやもやするのだ。 いま、メディアを通じて盛んに語られている言葉の多くが、苦しい渦中にある当事者に響くとは思えない理由は、そこにもある。 もやもやは続く……。