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世間のまなざしとミイラ捕り

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何か不祥事などを起こした人が記者会見などで、「世間をお騒がせして申し訳ありません」と謝罪することがある。しかし、このフレーズは翻訳不可能だそうだ。翻訳ではなく日本語として噛みしめてみても、誰に対して何を謝っているのか、まるでわからない。世間というのは、周囲のまなざしのことで、日本においては、自分の判断基準が世間の目にあることが多い。それゆえ、世間を騒がせたことが謝ることになってしまうのだろう。 あるいは、世間の目ばかりを気にして、当事者間の対話よりも世間に向けてのメッセージを優先してしまったり、逆に、世間から抹殺されないように、起きた事実を隠して乗り切ろうとしたりすることもある。それは、表面上は逆向きに見えても、一番気にしているのは世間という点では、同じことのように思う。 しかし、考えてみたら、誰に向かって何を語るか、というのは謝罪だけの問題ではない。それは、ふだんからの、その人の基本スタンスのようなもので、それが謝罪という局面になったときにも表れるのだろう。「世間をお騒がせして申し訳ありません」と謝る人は、ふだんから世間のほうを向いて、ものを語っているのだと思う。 ●ミイラ捕りがミイラに 世間のまなざしの問題は、たいへん根深い。さまざまな差別や偏見の問題というのは、世間のまなざしに苦しむことでもあるだろう。そこで具体的な不利益が生じるのはもちろんのこと、自分自身が、その世間のまなざしを内面化してしまって、それに苦しむということもある。だから、世間のまなざしを変えていくことは必要だ。偏見はあらためられなければならない。 しかし、そのために世間のほうばかりを向いて語り、ものを考えていると、「ミイラ捕りがミイラになる」ではないが、いつのまにか世間に受けいれられることばかりを意識するような思考回路ができてしまうように思う。自分自身のことをふり返っても、そのあやうさはあったように思う。たとえば、マスコミの人が取材に来て、どんなに話を尽くしても、結局は、世間のまなざしで話は切り取られてしまう。あるいは、わかりにくい話だと思われたら、話ごとなかったことにされてしまう。そこで、相手に受けとめてもらいやすいような、わかりやすい話をするようになる。結果、そういう話ばかりが、メディアでは流通するようになる。 社会運動をしてきた人でも、その土俵に乗っかる人が果たす役割もあるとは思うものの