投稿

5月, 2016の投稿を表示しています

「みんな」「共に」をめぐってー2

公共が崩されて、市場ばかりが拡がってしまうと、生きていくことの土台の安心感が崩れてしまう。それは、80年代のように学校が画一的で抑圧的で、選択することができないから苦しいという文脈では、捉えきれない問題だ。学校を選択できるようにさえなれば、子どもが楽になるというのは、時代錯誤と言ってよいだろう。むしろ、社会に選び・選ばれる関係(=市場)ばかりが拡がっているなかで、生きていくことの土台の安心感が崩れていることの困難さがある。それは、学校に行っている・行っていないにかかわらず、多くの人が直面している問題だろう。だから、公共の場を簡単に市場にゆだねてはいけないというのは、よくわかる。さまざまな分野における民営化や規制緩和が社会にどう影響してきたか、その結果は明らかだろう。 しかし、〈学校=みんな〉は、市場一辺倒の社会への防波堤になるのだろうか。あるいは、多様な教育を求めることは、たんに〈学校=みんな〉を切り崩して市場化することに貢献するだけに終わってしまうのだろうか……。 ●〈みんな〉/分類化・市場化/ブラック化 日本で〈みんな〉が抑圧になってきた理由のひとつは、〈みんな〉が〈みんないっしょ〉になってしまうからだろう。常に周囲の目を気にしながら、空気を読んで、浮いてしまわないことが最重要のことになっている。個人がそこにはない。いじめは、その最たるものだろう(このあたりは、すでに言い尽くされていることだが)。 つまり、〈みんな〉に多様性がない。だから、いろんな選択できる場が必要だとなるが、それが分類になってしまうと、〈みんな〉はますます画一化され、息苦しい場になる。養護学校義務化や特別支援教育がそうであったように、異なる他者を排除する方向になってしまうのでは、いろんな場ができたとしても、それは分類化が進むだけで、多様性は失われてしまう。 あるいは、それぞれの〈ニーズ〉に応じたサービスが提供されるとなると、市場が活性化するばかりで、市民活動は市場に呑み込まれてしまう。くどいようだが、フリースクールと広域通信制高校やサポート校との関係は、その最たるものだろう。 そして政府の方針は、分類化や市場化を強める方向にあるのだ。だから、〈みんな〉の場としての学校を手放してはいけない、多様な場をつくるよりも、学校に多様性を取り戻して(あるいは培って)いく必要があると

「みんな」「共に」をめぐってー1

先だっての 社会臨床学会でのシンポジウム(中島浩籌、石川憲彦、山下耕平) で大きなテーマになったのは、「みんな」とか「共に」ということだった。つまり、公共ということをどう考えるか。 石川憲彦さんが言っていたことを私なりの理解で言うと、「政府が公共を手放して、どんどん社会を市場原理にゆだねようとしているなか、『みんな』の場(シャバ)として、学校を手放してはいけないのではないか。学校は問題だらけだが、労働の場で『みんな』の足場をつくるのは不可能といっていい。せめて学校をせめぎ合いの場としていくほかないのではないか」ということだった。 しかし、その「みんな」が抑圧的だったからこそ、不登校が苦しかったのだ。この「みんな」「共に」「公共」ということを、どう考えたらよいのだろう? もやもやするなかで、ふと思い出した文章があるので、まずは読んでもらえたらと思い、ちょっと長いが引用したい。小沢健二の「うさぎ!」第十二話(季刊『子どもと昔話』36号/2008年7月20日発行)の一部だ。 「あのさ、何かの『民間契約』のニュースがあると、『民営化』とか『官から民へ』とか『効率化』とか『アウトソーシング』とか『競争主義』とか『市場原理の導入』とか『改革』とか、気味の悪い言葉を聞くじゃないか?」 「ああいう新聞用語は何度聞いても、今ひとつ意味がわからない。新聞用語には、人びとが理解しないように、わざとわかりにくい言葉が選ばれているからね。」 「現実には、もっとわかりやすくて、重要で、大きなキーワードがある。」そう言うと風は、こう書き付けます。 NPM(新しい国民の取り扱い方) 「NPMっていうのは、New Public Managementの略。『新公共経営』なんて訳されるけれど、要するに『新しい国民の取り扱い方』ってことだ。」 (中略) NPM(新しい国民の取り扱い方) ・国民をお客様として扱ってください。 ・何でも商取引(売り買い)として考えてください。 「そして、かならず言うのは……」 ・政府や役所、学校や保健所や図書館など国民のための施設は、企業のように運営してください。 「わかりやすい説明だから、ちょっと考えると疑問もすぐに浮かんでくる。疑問は、 ・国民をお客様として扱っていいのか? ・何でも商取引(売り買い)として

不登校とインクルージョン

●インクルージョン=みんないっしょ? 〈インクルージョン=包摂〉というのは、ちょっとわかりにくい概念だ。包摂という語感もあって、日本では、包摂=みんないっしょ=同化になりがちで、それは何か気持ち悪い。たとえば「みんなの学校」というのにも、私は違和感を覚える。 不勉強なので、まちがっていたらご指摘いただきたいが、インクルージョンについて、もう少し考えてみたい。まず、〈インクルージョン=包摂〉というのは、〈エクスクルージョン=排除〉の対となる概念だろう。なので、排除の問題から考えてみたい。 たとえば民族だとか障害によって、学校から排除されることがあれば、誰もが問題だと思うだろう。では、不登校は排除なのか? はじめから、子ども自身が既存の学校には行きたくない、ほかの学び場を選びたいということであれば、排除とは言えないだろう。しかし、実際の不登校の大半は、学校から排除された結果だと言える。いじめ、体罰、能力主義、競争主義、画一的な教育などなど、何らかの背景があって排除された問題としてある。その背景を問わないで、個人の選択の問題としてよいのか。しかも、その結果、生じる不利益までが自分で選びとったものとされてしまう。つまり、排除の問題がなかったことにされてしまう。 しかし、一方で原因を解決すれば学校に戻せるとして、学校復帰=支援としてきたことこそが、不登校の当事者を苦しめてきた。いつまでたっても、本来あってはならないものとして不登校がまなざされることが、当事者を苦しめている。だからこそ、最初から学校に行かないで、ほかの場で学ぶことを認める制度が必要だという主張が出てくる。 このねじれは、どう考えたらよいのだろう? ●参加する権利の保障 先の記事 で書いたとおり、まずは〈不登校〉と〈多様な教育〉を腑分けする必要がある。不登校があってはならないものとまなざされるのは、休んではならないという視線ゆえだ(多様な学びが認められないというのは別問題としてある)。不登校への否定的なまなざしを問い直すのであれば、まずは誰もが安心して休むことを認められる学校にしていく必要があるだろう。不登校=長期欠席が排除にならないようにすることが求められる。 そして、排除の問題があったとすれば、場や関係のあり方が問い直されなければならない。排除しておいて、本人の選択だった

〈インクルーシブ教育〉と〈教育の多様性〉

教育機会確保法案はインクルーシブ教育に逆行する、特別支援教育を拡大するものだという批判がある。その一方で、学校で苦しい思いをしてきた当事者からは、学校に「包摂」されることへの違和感が表明されている。このあたりも、きちんと考えないといけないことだろう。 ●子どもの多様性/教育の多様性 インクルーシブ教育からの法案批判の意見には、たとえば、こういうものがある。 同じ教室の中で、多様性を認めあい、共に育っていくのが、障害者権利条約のいうインクルーシブ教育だ。教室から排除しておいて、多様な場をつくり、多様な機会を認めるというのは、文科省のいう「インクルーシブ教育システム=特別支援教育の充実」と同じで、インクルーシブ教育ではない。( 名谷和子「障害児を普通学校へ・全国連絡会」会報337号/2015年8月7日 ) ここで整理しないといけないと思うのは、〈子どもの多様性〉と〈教育の多様性〉を、〈多様性〉という言葉でいっしょにしてしまうと、混乱してしまうということだ。法案の問題は、不登校を定義して分類していることにある。その上ではじめて特例として認められる教育ということであれば、障害児を排除してきた学校教育の延長にあると言えるだろう。つまり〈子どもの多様性〉が分断されてしまうことが問題だと言える。 ●教育の多様性とインクルーシブ教育 では、いったん法案を脇において、〈教育の多様性〉とインクルーシブ教育は矛盾するのだろうか。インクルーシブ教育は「同じ教室」でなければならないのか? たとえば 障害者権利条約 では、「一般的な教育制度から排除されないこと」「障害に基づいて無償のかつ義務的な初等教育から又は中等教育から排除されないこと」とある。(第24条2(a)) 現行制度であれば、少なくとも一条校でなければならないと言える。名谷さんが「同じ教室」と言うのは、養護学校義務化や特別支援教育により、学校制度のなかでも障害者が分類・排除されてきた歴史をふまえたものだろう。しかし、「同じ教室」の息苦しさは、いじめや不登校によって問われてきた問題でもある。 「一般的な教育制度」に多様性をもたらすことはできるのではないか。そのためには、けっして、分類を前提とした制度であってはならないだろう。「多様」とか「特別のニーズ」という名のもとに、分類すればするほど、学校は多様

議論錯綜の元凶は

法案をめぐる議論は錯綜に錯綜を重ね、ねじれにねじれた観がある。そのねじれの源がどこにあるかと言えば、〈不登校〉と〈多様な教育〉のちがいだろう。この二つをいっしょにしたところで、混乱を招いてきた。おまけに夜間中を絡めたものだから、訳がわからなくなってしまった。今後の議論のために、これまでに書いてきたことと重複するが、あらためて書いておきたい。 まずは、〈不登校〉と〈多様な教育〉を腑分けしたい。現象としては重なっていても、この二つは異なるものだ。 ●不登校とは何か 不登校とは文字通り、登校しないことだ。年間30日以上の長期欠席のうち、経済的理由や病気などではないものを指す。つまり、学校を休んでいることだ。不登校を認めるというのは、学校を休むことを認めることにほかならない。いまの学校が問題なのは、あまりに休むことを認めてないことだろう。学校に来ないかわりに、別のかたちで教育を受けていなければ休むことを認めないというのであれば、それは不登校を認めることにはならない。 ●多様な教育とは何か フリースクールやオルタナティブスクールというのは、もともとは欧米の教育思想をモデルにした教育の場のことだ。不登校とは文脈が異なる。だから、フリースクールやオルタナティブスクールを不登校するということも当然ある。どんなに多様な教育であろうと、それを子どもが拒否するということはある。多様な教育を認めるということは、不登校を認めることとはまったくちがう。 多様な教育を制度として認めようというのであれば、不登校を立法事実にする必要はまったくない。不登校を法律で定義づけ、その定義に即した人にのみ認められる教育の場というのでは、排除の上に分類していることになる。 ●学校の外とは何か 法案をめぐって、「学校の外を一歩でも認めさせたい」という主張が散見された。しかし、この「学校の外」とは何をもって外というのか。塾だってマッチョな矯正施設だって、「学校の外」である。既存の一条校以外であれば多様な教育だというのであれば、何でもありということになる。フリースクールなどは、学校に対する自律性があったとしても、市場に対する自律性がなければ、何でもありに呑み込まれた上に、市場に淘汰されてしまう。この10年ほどのあいだに、サポート校などを受託してきたフリースクールが多いことをみても、

痛みの側に立ち続けること

ついに、教育機会確保法案は国会に上程されてしまった。座長試案発表から1年。議論はかみ合わないまま錯綜し、不登校政策法案に様変わりして、もともとの推進者のなかにも疑義を感じている人がたくさんいるにもかかわらず、上程にまで至ってしまった。さまざまに挙がっている批判については付帯決議に反映するというが、茶番というほかない。 すでに法案についての問題指摘などは尽くされている。あらためて言うべきことは何もないが、先だっての共同記者会見の後に開かれた意見交換会で述べたことを、ここにも記しておきたい。 この1年、ヒアリングなどで議員と直接やりとりをしてみて、私が感じたのは、この人たちは本当に「善意」なんだ、ということだった(そう言ったとたんにヤジが飛んできたが……)。ただ、「善意の道は地獄に通ずる」という言葉があるように、「善意」はとても危うい。これまでの不登校政策だって、いわば「善意」によるものだろう。あるいは、子どもを学校に戻そうとがんばってきた教師や親も、みんな「善意」だ。だからこそ、その「善意」は当事者の子どもにとって、さまざまな苦難を生み出してきたのだ。 しかし、どんなにそれが「善意」であろうと、それは現実によって裏切られる。不登校の歴史は、そのくり返しだったとも言えるだろう。だからこそ、親や周囲は、自分たちの価値観を問い直すことを迫られ、学校や社会のあり方が問い直されてきたのだ。仮に今回の法案が通ったとしても、その「善意」は必ず裏切られるだろう。しかし、問題は、そこに痛みを伴うことだ。私たちに求められるのは、その痛みの側に立ち続けることだろう。 これまでも繰り返してきたことだが、何度でも言っておきたい。法案がどうなろうと、問題は法案以前にあって、法案以後にある。