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議論・対話のために

教育機会確保法案は、次の臨時国会での継続審議ということになりました。それまでに、きちんと議論をすることが必要でしょう。この間、私なりに論点を整理したいと思って、このブログに書き散らしてきました。ただ、ブログだと順番が逆になっていたり、バラバラとしていて読みにくいので、4月以降に書いたものを、いくつか、下記PDFにまとめました。 →PDF 賛否を問わず、議論できる論点は整理したつもりです。 よかったら読んでいただき、ご意見をいただければと思います。また、さまざまな方と対話できる機会があればと願っています。

「みんな」「共に」をめぐってー3

学校や市場に対して、自律的な層が必要だ、ということは、これまでも何度か書いてきた。なので、そのあたりの議論は省略して、たとえば下記を参照いただければと思う。 『不登校は終わったのか』(2012,貴戸理恵×山下耕平/NPO法人フォロ) 社会臨床学会でのシンポジウムの議論に戻れば、中島浩籌さんは、次のように話していた。 出会いの場や関係性は、学校の外と内、異性愛と「同性愛」といった既成の区分を越え、その「あいだ」に生じている。逆に言えば、その区分を問うところに生じている。その関係性、既成の区分や人材育成的な公教育に回収されえない関係性をどう考えていくのか。(2016.5.22中島浩籌「現在の状況変化の中で透けて見えてきた問題と出会ってきた問題」社会臨床学会総会シンポジウム・レジュメ) なんだか小難しいようだが、私なりの理解で言えば、不登校にしても、既成の区分に回収されないからこそ、関係性に拓かれていく可能性を持ってきたということなのだろう。ただ、制度は常に、そこから逃げるものを回収しようとする。今回の法案も、然りだろう。そこから「共に」逃げ続けていくことが必要だというのが、中島さんの主張だったと思う。 私も、いまの社会のなかで、どうやって逃げ場をつくっていけるのかが、もっとも大事なことだろうと思う。かつてのように、不登校したというだけでは、逃げたことになり得なくなってきている。だから、フリースクールなども、人材育成などに回収されてしまっては、みずから逃げ道をふさいで自滅してしまうことになるだろう。フリースクールが自滅するのは勝手だが、善意の名のもとに、子どもの逃げ道をふさぐことに加担するのでは、迷惑千万な話だ。 ●〈いっしょ〉を前提とせずに だいぶややこしくなってきたが、もうひとつだけ、今回のシンポジウムで、〈みんな〉〈共に〉をめぐって感じたことを書いておきたい。 それは、大づかみに言えば世代差の問題だ。〈みんな〉とか〈共に〉というとき、原風景のようなものを前提としている世代と、それができない世代があるのではないか、ということを感じる。若い世代ほど、足場を〈みんな〉に置こうにも、原風景のようなものとしては根をおろせない、そこが傷んでしまっている、前提にできない苦しさがある。でも、一方で言えば、ある世代までが前提としている〈みんな〉は、