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「正しさ」と「まちがい」と非対称の関係と

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先日、「まちがっているかもしれない」という認識は大事ではないか、という 記事 を書いた。もう少し、このあたりのことについて考えてみたい。 自分は「正しい」と思うのは、とても怖いことだと思う。たとえば、社会運動においても、内部でハラスメントや問題が生じることはあって、でも、自分たちの「正しさ」を維持するために、問題を抑圧してしまうことがある。そういうことを看過してはいけないと思う。 ただ、社会運動の場合においても、何かの被害者の場合においても、立場の弱い側が強い側に向かって声をあげるとき、自分たちは「正しい」と思わなければ、そもそも声をあげることさえできない、ということはあるだろう。世の中の関係は常に不平等で非対称なので、それをフラットに考えることはできない。差別や偏見で「異常」とまなざされていたり、圧倒的に不利な立場に置かれている側が、「まちがっているかもしれない」などと自省させられるいわれはない。むしろ、異常視するおまえらこそが「まちがっている」と見方を反転させる必要がある。 たとえば不登校においても、不登校は「病気」扱いされ、さまざまな人権侵害が公然と行なわれ、子どもたちが苦しめられてきた。しかも、加害している側は「善意」のつもりで加害意識がない。それに対抗する言説として、「不登校は病気じゃない」といったことが語られてきた。病んでいるのは、子どもではなく、むしろ学校のほうではないか、と。そういうカウンターがなければ、「善意」は揺らぐことなく、不登校をめぐる状況は厳しいままだったにちがいない。 しかし、その社会運動をする側が、自分たちの「正しさ」や「善意」を疑わないということになれば、同じ穴のムジナとなってしまう。利敵行為になるから、といった理由で、内部の問題を抑圧することが正当化されてはならないし、「正しさ」を守るために、周囲がそれを擁護するようなこともしてはならないだろう。 「正しさ」は、必要なときはあるとしても、常に問い直されなければならない。 ○ジャスティス ところで、修復的正義について学んでいたとき、ジャスティスという言葉には、「事態を完全にする」あるいは「秩序を健全にする」という意味合いがあるということを知った(ハワード・ゼア『修復的司法とは何か』新泉社2003)。 言うなれば、ジャスティスという理想を置いて、その理想

「まちがっているかもしれない」という認識

いじめの場合でも、セクハラやパワハラなどの場合でも、被害者を苦しめ続けるのは、その被害が被害として相手に受けとめられないことではないか、と思う。私のこれまでの関わりのなかでも、中学時代にいじめに遭い、その後、何年経っても、その苦しさが癒えることなく、続いている人がいる。 ●宛先のない苦しみ それは、宛先がないことの苦しみなのだと思う。いじめの加害者は、たいてい遊び感覚で、加害行為の認識もない。まして、過去のことであれば忘れ去ってしまっていて、被害者からすると、被害を被害として受けとめ、謝ってくれる人がいない。 セクハラやパワハラの場合も、多くの場合は、その人の感覚からしたら加害の感覚はなくて、ほんとうのところは何が悪いのかわからない、ということが多いのではないだろうか。 それが裁判などで争われることになって、謝罪や賠償を得ることがあったとしても、その実、加害者側は何がどう加害だったのかはピンと来ていなくて、文字通り形式だけの謝罪に終わってしまうことも多いように思う。むしろ、内心では相手のほうが過敏だとか、自分のほうが被害者だと思っていることもあるのではないだろうか。そして、そういう「本音」は言外に被害者にも伝わる。だから、形式的には決着のついたように見える事件でも、被害者にとっては、そこでは問題は終わらない。 ●「あたりまえ」の感覚の問題 自分の加害を認めるというのは、とても難しいことなのだと思う。加害しているつもりはなかった、悪意はなかった、悪気はなかった、遊びのつもりだった、コミュニケーションのつもりだった、同意していると思っていた、覚えていない、酒に酔っていた、などなど。くり返される、そうした言葉は、おそらくは本心なのだと思う。そうだとすれば、その感覚そのものが、加害行為の温床だったということではないだろうか。 問題なのは、そこに力関係があるということだ。自分の感覚のほうがあたりまえで、相手のほうが過敏だと感じるとしたら、それは、自分の感覚をあたりまえにできるだけの状況や力関係があって、自分のほうが強い立場、あるいは多数派の側にいるということかもしれない。たとえば、ヘテロセクシュアルの人が遊び感覚で言う性的な冗談は、セクシュアルマイノリティの人を深く傷つけることも多い。学校に行くことがあたりまえの人の感覚は、意図せず不登校してい

「立場」について

東京シューレの出身者で、「明るい不登校」や不登校を「選択」とする言説を徹底して批判していた常野雄次郎の遺文集を読んだ(販売はされていないが、かなりの文章は彼のブログで現在も読むことができる)。まとまって読んでみて、あらためて彼の思想の一貫性と徹底性に感じ入るとともに、いろいろ考えさせられるものがあった。 そのひとつは、ものを書くときなどの「立場」についてだ。この記事では、そのあたりのことについて、ちょっと考えてみたい。 たとえば、常野は次のように言う。 伝統的な客観性の概念は、研究者に調査活動から自らのアイデンティティーを引き離すことを要求します。しかし、以下のような問いがなされなければなりません:そのような「分離」は実際に可能なものなのか? 「『アルキメデスの』点――つまり、社会におけるいかなる特定の位置とも無縁な点」にあると称することができるのは誰なのか? ( 調査する者とされる者の終わらない関係 第1回 調査者を位置づける ) 「逃げろ」。だが誰がどんな立場で「逃げろ」と言うのだろうか? どこか遠く離れた惑星の宇宙人と交信しているのであれば客観的なアドバイスもありうるだろう。だが我々は「観客席」にいるのではない。もう一度繰り返す。我々は一つの全体の中に関係し合いながら生きている。「観客席」はない。「ないものはない。残念ながら、あなたも立派な当事者だ」。 ( 「逃げよ。しかし逃げながら武器をつかめ」 ) 彼は、このあたりを徹底して考え抜いていたがゆえに、苦しかったのだと思う。しかし、その苦しさは、ものを考えたり書いたりするうえでは必然のものだとも言える。苦しくないとしたら、それはよほど鈍感か、自分の「立場」を見ないことにして、ないはずの「アルキメデスの点」あるいは「観客席」に座っているつもりの人だけだ。 しかし、たとえば報道は「客観・中立・公正」でなければならないと言われたりする。偏向報道はよくない、不偏不党、客観的事実を報道するのがジャーナリズムではないか、と。一見、もっとものように思えるかもしれない。だが、たとえばジャーナリストの本多勝一は次のように言っていた。 真の事実とは主観のことなのだ。主観的事実こそ本当の事実である。客観的事実などというものは、仮にあったとしても無意味な存在であります。 (本多勝一『事実とは何

書評:『いのちへの礼儀』

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とてつもない本を読んでしまった。本書は、家畜やペットをはじめ、人間と動物との関係について、徹底的に考え抜かれた本だ。工業畜産とも言われる家畜の実態、大量生産され大量廃棄されているペットの実態など、人間が利用している動物たちの置かれている状況は、残酷きわまりない。しかし、そうした事実を知らないことにして、私たちは、一方で動物たちの肉を食べ、一方で動物を愛玩し、自分たちの欲望を満たしている。 私も、家畜やペットをめぐる問題について、まったく考えてこなかったわけではない。ある程度、知っているつもりではあった。しかし本書を読んで、いかに自分の認識や考えが断片的で薄っぺらいものだったかを思い知った。自分の「人間中心主義」の根深さを恥じたい。 肉牛、乳牛、豚、鶏、養殖魚などの家畜、犬や猫などのペット、マウスやウサギなどの実験動物の置かれている、あまりに残酷な現状には、耳をふさぎ、目を覆いたくなる。ただ、一方には、その現状に対するカウンターの思想や行動も起きている。たとえば、動物の福祉、動物の解放、環境倫理学など。くわしくは本書を読んでいただくとして、そこで問われているのは、誰を「私たち」に入れるのかという線引きの問題でもあるだろう。それは「家族」なのか、「国民」なのか、「人類」なのか、動物を含めた「感覚ある存在」なのか、「生態系」そのものなのか。線引きすれば、そこから向こうは、「私たち」のために利用していい存在ということになってしまう。事実、「私たち」は「私たち」以外の人びとを、動植物や自然環境を、道具のように利用して生きている。 著者の生田武志は言う。   わたしたちにとって「希望」は、犬や猫などの伴侶動物、牛や豚や鶏などの家畜、そしてさまざまな野生動物と共存し、そこから「喜びに満ち、相互に高め合う」関係を創造することなのかもしれません。それは、わたしたちと動物たちが共生しつつ、今までの「国家・資本・家族」を相対化し、別の「社会」の可能性を創り出すことを意味しています。 ●野宿者問題から ところで、著者の生田武志は、動物問題の「専門家」ではまったくない。80年代から大阪の「釜ヶ崎」を中心に、野宿者問題や貧困問題について考え、夜回り活動などをしてきた人だ。 生田は「野宿問題は労働市場(資本)、家族の相互扶助、国家の社会保障の崩壊によって起こりま

マスクを着用していませんが

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全世帯に布製マスクを2枚ずつ配布するという「アベノマスク」は大ひんしゅくを買っているが、それはさておくとしても、新型コロナウィルスによって、社会はマスクパニックとも言える状況になっているように思う。 しかし、いまのところ、私はマスクを着用していない。まちがっているのかもしれないが、その理由は下記のようなことだ。 ・マスク着用は、感染予防にはあまり意味がないと言われている。 ・自分が感染していた場合に、飛沫を外に飛ばさない(他者への感染を防ぐ)意味はあるが、症状を感じていないうちは、着用するつもりはない。 ・無症状でも感染している可能性は否定できないが、一方で、深刻なマスク不足になっており、必要な人にマスクが充分に届いていない問題が生じている。優先すべきは、医療従事者、介護従事者などであり、また、花粉症の方など、必要なのに不足している人もいる。 ・マスク不足のなか、布製や自家製マスクの使用や、マスクを使い回したりすることは、かえって不衛生になることもある。 ・何より怖いのは、「みんながそうしているから自分も」という集団心理が生じていて、それに合わせない人への排除のまなざしが生じかねないことだ。 ・公衆衛生の必要性や、非常時に私権を制限せざるを得ないことがあるのは理解できるが、冷静な判断がなければ、全体主義的な集団心理を発生させてしまう。 ・そうした集団心理は、戦時中のような、異質なものへの排除へと容易につながってしまう。それは、とても怖いことだ。 ・ここで引き合いに出すのもおかしいかもしれないが、それはまた、みんなが行っている学校に行けない人(自分)はダメだという、不登校への圧力とも同根のものだろう。 ・コロナウィルスは目に見えず、対処法もまだ見えず、どう判断してよいのか、わからないことばかりだ。不安ばかりが大きくなってしまう。それだけに、「みんなといっしょ」の安心感にすがることは危ないと思う。パニックが生じているときこそ、冷静に物事を考える必要があるのではないか。 以上のような理由から、いまのところ、私はマスクを着用していない(ただし、必要性を感じれば、それに応じて着用するつもりだ。意固地になるつもりはない)。 * * * 追記 その後、対面で人と会う際などにはマスクを着用しています。