投稿

5月, 2020の投稿を表示しています

居場所とコロナと信頼と

イメージ
緊急事態宣言が解除され、新型コロナウィルス感染も、第1波は収束しつつあるようだ。今後、長期にわたって波をくり返しながら、じょじょに収束へと向かっていくのだろう。ちまたでは「withコロナ」という言葉も聞かれるようになった。 それにしても、なんとも悩ましい。感染防止と社会経済活動とのバランスをはかるといったことは、あちこちで言われているが、ここで考えたいのは、人や環境への信頼が揺らいでしまっているなかでの、「居場所」のあり方の問題だ。私の関わるNPO法人フォロでも、ぼちぼち場を再開していくことにしたが、経営の問題が厳しいのはもちろん、今後、どうやって場を開いていったらよいのかは、たいへん悩ましいものがある。 いま、誰もがマスクを着け、人との距離は2メートルを確保することが求められ、人に近寄るのも怖くなってしまっている。ふれるものすべてが疑わしく、あらゆるところにアルコール消毒薬が置かれ、ひんぱんに手洗いをせねばらならず、お店のレジにはビニールの壁が立てられ、無症状でも感染の可能性はあると、あらゆる人や環境が脅威の存在となってしまっている。そうした状況のなかで、おしゃべりしたり、いっしょにご飯を食べたり、ごちゃごちゃしながらもいっしょに過ごすことを大事にしてきた居場所の活動などは、どうやってやっていけるだろうか……。 もちろん、私だって感染するのは怖い。自分だけの問題ならまだしも、自分が感染して、ほかの人にうつしてしまっては申し訳ない。だから、感染防止策は必要だと思うが、一方で、人や環境への信頼がなくなってしまっていることが、なんとも悩ましく思う。とくに、子どもたちは気の毒だ。暑くなってきているなか、頭から湯気を出しながらマスクを着けて遊んでいる姿を見かけると、つい「はずしちゃいなよ」と言いたくなってしまう。保育園などでは、保育士さんがマスクをはずしてしまう子を叱らざるを得ず、現場はたいへんな状況になっていると聞いた。第一、小さい子どもたちが「ソーシャルディスタンス」を確保しながら過ごすなんて、ムチャな話だ。 自分の周囲は基本的には安全で安心できるけれども、ときには危険なこともあるというのと、基本的に危険で不安だから、安全のためには周囲を常に警戒しなければならないというのとでは、まったくちがう。この状況のなか、子どもたちは、どうやって、この世界や人々を信

ノイズを大事に

イメージ
以前、ある会で「言われてイヤな言葉」を出し合ったことがあって、そのとき、思い浮かんだ言葉のひとつは「サヨク」だった。何か社会の問題を考えて話をしているとき、「サヨク」という言葉で片づけられてしまうことがある。自分が「サヨク」であることを否定したいわけではないが、その人のなかにある「サヨク」というイメージ、もっと言えば偏見で片づけられたくない。「プロ市民」という言葉も同じだが、それらの言葉は、問題提起についての反論ではなく、問題提起そのものを排除してしまうし、その人を存在ごと排除してしまうように思う。なぜなら、いったん貼りつけられたイメージは、その人を排除する記号となって、その人が何を言っても、その内容は聞かれることなく、壁を立てられてしまうようになるからだ。 それは差別の問題において、常に起きていることだろう。あるカテゴリーにある人たちを「私たち」とは異質な存在として、排除する。排除した相手の言うことは聞かないし、どんな攻撃をしてもよいことにしてしまう。あるいは逆に、腫れものにふれるように、アンタッチャブルな存在としてしまう。とくに社会不安が大きくなっているときは、その傾向は強まってしまう。いま、新型コロナウィルスへの不安のなかで、さまざまな差別や排除が起きているように思う。 しかし、ここで考えたいのは、そうした差別や排除の問題は、特定のカテゴリーにある人たちに対するものだけではなく、常に私たちの足下にあるものだということだ。「サヨク」の場合もそうだが、自分にとって目ざわりなこと、あるいは耳の痛いことを言う人のことは、排除してしまいがちだ。「あの人は○○だから」と思えば、その意見は聞かなくてすんでしまう。それが個人対個人であればまだしも、集団となるとタチが悪い。その集団におけるマジョリティにとって目ざわりなことは、排除されてしまう。そして、その排除は正当化される。それは、それこそ「サヨク」組織のなかでも、くりかえされてきたことだろう。 ●「狂信」と排除 かつて、鶴見俊輔は、こんなことを言っていた。 社会批判の運動は、しばしば、というよりも、ほとんどいつも、自分たちの運動そのものの絶対化を前提としている。そこから、社会批判の運動には、それが科学を看板にかかげている場合にも、狂信性がつきまとい、しかも、みずからの狂信性に眼をむけようとする意志をも

「みんな」と「専門家」と、この社会の素性と

イメージ
人に言われて、私がカチンときてしまうことが、ふたつある(もっとあるかもしれないが、とりあえず)。 ひとつは、「みなさん、そうしてますよ」。 もうひとつは、「専門家がそう言ってるんですよ」。 そう言われると、「それで、あなた自身はどう考えているんですか?」とツッコミたくなる。でも、そう問い返しても、たいがいは「いや、みなさん、そうしてますから」「専門家がそう言っているんですから」とくり返されてしまうことが大半のように思う。 どちらの場合も、「みなさん」や「専門家」に判断をあずけてしまって自分の頭で考えようとせず、それでいて他者を従わせようとしているから、カチンと来るのだと思う。 新型コロナウィルスの感染拡大で、その傾向はセットになったうえ、極大化しているように思える。私は、それが感染拡大防止のために必要だとしても、この傾向がとても怖い。なぜなら、そこにひとりひとりの判断がなければ、それはいかようにでも暴走してしまうように思えるからだ。 危機的状況のときは、その人の素性があらわれてしまうように、その社会の素性もあらわれてしまうのかもしれない。 ●「専門家」と「素人」 「みなさん」のあやうさについては、言うまでもないだろう。とりわけ日本は「世間」が判断基準になっているので、もともと個人と社会の緊張関係が弱い。たとえば、「自粛警察」などの動きは、たいへんあやういと感じる人も多いだろう。 しかし、「専門家」については、その判断に従うのは当然だと思う人は多いのではないだろうか。素人判断は危ない、病気のことは医者に、法律のことは弁護士に、教育のことは教師に、感染症のことは疫学の専門家に。それは当然のことではないかと。 たしかに、その通りと思うところはある。私だって、病気になって医者に行くことはあるし、法律のことで弁護士に相談することはある。専門家の知見や技術によって助かることはある。コロナウィルスのことだって、わからないことだらけで、専門家の意見は聞くべきだと思っている。ただ、判断を丸投げして専門家にあずけるようなことはしたくない。あくまで、判断の主体は自分にある。専門家は、自分にわからないことを説明してくれ、考えさせてくれる存在で、どうしても判断のつかないことは信頼してあずけるしかないが、それは最後のところにあるものではないかと思っている