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『トークバック』を観て

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今日、 『トークバック』 (坂上香監督)を観てきた。テーマは、前作『ライファーズ』に続いて、暴力の被害者が、その経験を含め自分自身と向き合い、それを他者とシェアしていくことで、自らを再生していくプロセス、と言えばよいだろか。 映画に出てくるのは、メデアというアマチュア劇団。HIV陽性と判明した女性たちが、演劇を通して、みずからの経験を「語って」いく。HIVに罹患したことは、それ自体、重たい問題だが、そこに至るまでの背景があり、そして、罹患したことによる二次被害もある。言ってみれば、前にも後ろにも困難の積み重なるなかで、現実を直視しながら前に進むのは、ひとりでは、けっしてできることではないことだろう。同じ立場の仲間がいて、最初は仲間に対して自分を開き、そして広く社会に向かって、自分を開いていくことで、他者とともに、自分(の現実)を受けとめていくことができるのだと思った。 監督の坂上香さんは、「非言語表現が、その人の経験を言語化することに役立っている」と話していた。たしかに、いきなり言語化ということだと、直截的に過ぎるのかもしれない。自分を開いていくには、周囲の人間への信頼関係が不可欠で、それが熟さないかぎり、乱暴な手つきでフタを開けるようなことは、かえって危ないことにちがいない。まだ言葉にできない、どろどろしたものも、身体を通じて(言葉以前のものを通じて)、分かち合われることで、それが信頼につながっているように感じた。 たぶん、いまの日本社会でも、周囲への信頼関係は希薄化していて、だからこそ、自分のなかのどろどろしたものを他者に開くことができず、それゆえに自傷行為や依存症などになってしまっていることも多いような気がする。 私たちも、づら研(生きづらさからの当事者研究会)を開いているが、もっぱら言語に頼っているところがあるので、もっと身体レベルで考えられることも、あるように思った。いま、いろいろな当事者研究の団体にうかがって、勉強させてもらっているところでもあるので、また、いろいろ工夫を重ねていきたい。

下村博文氏献金問題、特区、フリースクール支援……

下村博文文科大臣の献金疑惑が問題になっている。2004年に、構造改革特区で公設民営学校が導入された際にも、背景に塾業界からの献金があったとの指摘もある(3月10日衆院予算委で宮本岳志議員/ しんぶん赤旗2015年3月11日 )。事実であれば、利益誘導政治と批判されてしかるべきだろう。 いま、「フリースクール支援」の動きが起きているが、この動きも、下村大臣が主導してきたものだ。フリースクールには「献金」できるような団体はひとつもないだろうが、関係者は、この問題について、きちんと考えておくべきだと私は思う。 さしあたって、ちょっと長くなるが、参考までに拙著『迷子の時代を生き抜くために』(2009北大路書房)から引用しておきたい。だいぶ前に書いたものだが、読み返してみて、いまでもまったく同じ問題があると言えるように思う。 たとえば構造改革特区は、大きな枠組みとしては、市場原理の活性化のために規制緩和するということだ。教育分野にしても、学校という「聖域」に市場原理を導入することが第一の目的とみていいだろう。これまで学校の設立は学校法人にかぎられていたが、株式会社やNPO法人でも設立可能になった。しかし、株式会社による学校設立が大学・大学院8校、小・中・高校19校あるのに対し(2008年現在)、NPO法人による学校設立は1校もない。先にあげたシュタイナー学園や東京シューレ葛飾中学校の場合は、学校法人として学校を設立している。これも大幅な規制緩和があってのことだが、それでも、既存のフリースクールやオルタナティブスクールで学校を設立できるところは、ほとんどないと言っていいだろう。 数が少ないとはいえ、シュタイナー学園や東京シューレ葛飾中学校のようなオルタナティブスクールやフリースクールが制度的な位置づけを得たことについて、一定の評価はできるだろう。しかし、たいへんイヤな言い方をすれば、これらは、株式会社を参入させるための“当て馬”にされたという懸念もある。それはうがった見方にすぎるとしても、大きな流れとしては、特区が市場原理のための規制緩和だということは事実だ。 ●不登校するのは才能のある子? 2005年、文科省の下村博文政務官(当時)は、フリースクールなどとの懇談会を数回にわたって開催するが、下村政務官は不登校について、次のように語っている。 今の公教育は画一・