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全国不登校新聞社解散の報を受けて

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全国不登校新聞社が解散すると知った。事業を別団体に譲渡し、紙版の発行は停止、Web版は継続するという。 >社告 紙版の配信停止、法人解散、事業譲渡による事業継続等のお知らせ この社告において、法人解散はコロナ禍の4年間における発行部数の減少が理由とされているが、部数の減少には、東京シューレ性暴力事件に対する全国不登校新聞社の対応が不誠実であったことの影響もあるのではないだろうか。全国不登校新聞社は、事件への直接的なかかわりがあったにもかかわらず、見解をまったく示してこなかった。そうした状況のなか、法人解散となると、責任を果たさないまま、責任主体そのものが消えてなくなってしまう。 部数減少の程度は、今年度に関してはわからないが、ホームページに掲載されている活動報告書を確認すると、2019年度と2022年度の比較では、新聞発行事業の売上高は4%減となっている。事業の整理が必要だというのは理解できるが(紙版の発行停止など)、法人を解散し、事業を譲渡する理由としては、合理性があるとは思えない。法人解散は、性暴力事件に対する責任を放棄するため、と疑われてもやむを得ないのではないか。 詳細な経緯は把握できていないが、私が理事を退任したあと、全国不登校新聞社は、被害者に連絡をとり、見解の公表を考えていたようだ。しかし、被害者側は、X(旧Twitter)で以下のように述べている。 以前、不登校新聞社から連絡をいただきましたが、その内容も事件を矮小化し、自社の責任を小さく見せようとするものと被害者側には伝わったため、このような二次加害が続けられるのであれば、今は話を続けることは困難と判断しました。きちんと被害者側と合意ができるまでは、そのような加害側の視点で事件を語らないでほしいと伝えてある段階です。(原告@東京シューレOG 避難垢 @Zg2a4qB6NPnbG2e/2023年10月9日午後9:27) こうした経緯からすれば、被害者との合意なく、事件に対する見解を示すことはできないだろう。解散の理由に事件についての記述がないのも、そのためかもしれない。今後、解散までに、ていねいなプロセスを踏むことはおそらく困難だろう。しかし、何の見解を示すこともなく、法人を解散するとなれば、その責任の行方はどうなるのか。  ●責任の所在と行方について 私は、1996年4月~2000年3月まで東京シュ

東近江市長発言をめぐって

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 2022年度の不登校数は小中学生で約30万人、過去最多で10年前の2.5倍となった(ただし、「不登校」は長期欠席の一部で、長期欠席全体では約46万人となっている)。 不登校激増のなか、フリースクールなどの認知は広まり、2016年には教育機会確保法が成立し、学校復帰一辺倒ではなく、多様な教育機会を確保していこうということが言われている。しかし、一方では反動も起きている。 10月17日、不登校対策を議論する首長会議の場で滋賀県東近江市の市長が「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない」「不登校の大半は親の責任」といった発言をした。これに対し、 滋賀県フリースクール等連絡協議会 が抗議をしたほか、フリースクール全国ネットワークなど3団体も連名で 発言の撤回を求める意見書 を出し、滋賀県のフリースクール関係者による 署名運動 なども起きている。 市長の発言は無知蒙昧かつ人権を侵害するもので、抗議するのは当然だ。市長は発言を撤回するだけではく、見識をあらため、謝罪をすべきだろう。 発言の問題については、すでに多くの指摘があるので、ここであらためて書くことはしない。ここで考えたいのは、抗議は当然として、だから多様な教育機会の確保でよいのか、ということだ。 教育機会確保法は、その成立までに、関係団体のあいだでも賛否が分かれた。その懸念のひとつは、義務教育民営化への懸念だった。実際、法律成立後、文科省「GIGAスクール構想」「COCOLOプラン」、経産省「未来の教室」「Edtech」など、さまざまな動きが起きている。教育機会の確保は、フリースクールなどよりも、教育産業による「個別最適化」した教育をICTを活用して進めていこうとする動きが大きな流れになっていると言っていいだろう。 また、文科省は、ひとり1台配布しているタブレット端末を活用し、毎朝、児童生徒にその日の気分を書きこんでもらうことなどを通じて不登校の兆候を早期に発見すると言っている(2023年1月31日文部科学大臣会見)。先行して、大阪府吹田市では、2022年度よりデイリー健康観察アプリ「デイケン」を使って、同様の取り組みを進めている。児童生徒から入力されたデータは、蓄積データとあわせて即時に解析され、心身の状態のリスクが高いと判定された場合は、教員のダッシュボードにアラートが表示されるという。 いまや「自主性」や「主体

「責任」をめぐるズレについて

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裁判の取材などをしていて、被害者が民事裁判を起こす場合、損害賠償というかたちしかないのはなぜなのだろうと思うことがよくあった。もちろん、刑事裁判についても、被害者は被害届を出したり告訴することはできるが、刑事裁判の場合、告訴というのは犯罪事実を申告し、犯罪者の処罰を求める意思表示のことに過ぎず、自分で裁判を起こせるわけではない(起訴できるのは検察のみ)。また、刑事責任というのは、法律を犯したことで、国家から刑罰を受ける責任であって、被害者に対する責任ではない。被害者が加害者に対して責任を果たさせたいというとき、その方法は裁判では損害賠償というかたちしかない。しかし、それは金銭で被害の程度を測り、その責任を確定させるということになる。そのため、ややもすれば、金目当てだと非難されることもあるし、そうでなくても、そこには何か大きなズレがあるように思う。このズレは何なのか、長年、疑問だった。 このあたりの疑問について、 デヴィッド・グレーバー『負債論』 を読んでいて、腑に落ちるところがあった。 たとえば、ある民族において、殺人の被害があったとき、加害者の一族から被害者の家族に対して、貨幣としての「鯨の歯」や「真鍮棒」が贈られる。しかし、それはひとつの生命を負っているということを認める印であって、賠償にはなり得ないのだという。いくばくかの貨幣が、誰かの価値の等価物たりうると考えることはできない。かといって、復讐殺人も被害者の悲しみと苦痛の償いにはならない。貨幣は、あくまで「負債」を支払うことは不可能であることの承認として支払われるのだという。つまり、その「負債」は背負い続けていくしかないもので、それを認める印として貨幣を支払うということなのだろう。 しかし、現在の社会においては、被害は金額に換算され、それを被害の等価物として、損害賠償をしたら、それで責任を果たした、決着したということになっているのではないだろうか。多くの場合、加害者側は、賠償をしたのだから、その責任を果たした、それで区切りをつけたいと思いたいのではないだろうか。一方、被害者の側は、あくまで賠償は責任を認めたことの印であって、その責任は将来にわたって背負い続けていくことを求めているのではないか。私が感じてきたズレは、このあたりにあるように思う。 『負債論』は、人間社会における、計算など不可能な信用関係が、いかに

自分の足下の負の歴史を見つめられるか――『福田村事件』を観て

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映画『 福田村事件 』を観てきた。福田村事件は、関東大震災に際し、朝鮮人と疑われた香川県からの薬の行商人が自警団などによって襲撃され、9名(胎児も含めれば10人との説もある)が殺害された事件だ。映画では、事件の背景をていねいに描いていた。事件は偶然、単発に起きたわけではなく、メディアの責任を含め、事件を醸成してきた社会背景や体質がある。そして、その社会の体質は、いまも変わらないように思う。 映画や事件については、いろんな人が書いていると思うので、ここでは、監督の森達也の言葉から、自分の足下の問題に引き寄せて考えてみたい。 以下、NHK「クローズアップ現代」2023年8月30日放送より書き起こし。 ――映画で加害側を描こうとした理由は? もちろんやったことは裁かれなければならない。それとは別に、加害側も同じような人間であり、同じような感情があり、同じような営みがある。いざ、ことが起きたときに、僕たちはそれを忘れてしまう。加害側をモンスターにしてしまう。そのほうがわかりやすいんですよね。加害側は悪、加害される側は善、この構図にしておけば、とりあえずは安泰だし楽だし、でも加害側にはやっぱり大きなメカニズムがあり、理由があり、だからしっかりと検証するのであれば被害側ではなくて加害側ですね。 ――個を保つために必要なことは? 集団に帰属することは人間の本能ですから、それはどうしようもない。これは大前提です。そのなかで埋没しない、集団を主語にしない。おおぜいの人を主語、つまり我々とか僕たちとか私たち、あるいは集団の名称、会社であったり、NPOであったり、町内会でもいいです、こうしたものは主語にしない。リテラシーですよね。集団のなかの情報は、それに対しても疑いの目を向ける。(略)そういうかたちで、情報に対しては信じこまない。多層的なんです。多重的で多面的です。ちょっと視点をずらせば、ちがうものが見えてくる。その意識を持つこと。それは僕はリテラシーの一番の基本だと思っています。 ――負の歴史から何をに学ぶべきか? 歴史は何のためにあるかというと、僕は失敗の歴史を学ぶためにあると思うんです。なぜこの国はこんな失敗をしたのか。なぜ自分たちはこんな過ちをしてしまったのか。それを学ぶことで国だって成長できるはずだと思います。本来であれば教育が、メディアが、そして映画も負の歴史をしっかりと見

エキストリーム・センター化する当事者運動

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酒井隆史 『賢人と奴隷とバカ』 を読んでいて、「エキストリーム・センター」という概念があることを知って、いまの状況を考えるうえで、とても腑に落ちるものがあった。エキストリーム(過激)というと、極左とか極右とか、左右どちらかに振れているイメージがあるが、いま問題なのはセンター(中道)が過激化していることなのだという。 自分は穏健で中立だと自認しながら、相手を偏っているとか極端だとか言って、排撃する。あるいは自分は冷静で合理的だとしながら、相手が感情的で非合理であると言って排撃する。ネットには、そういう言説があふれているし、メディアに出ている「知識人」もリベラルを装って、現実にある対立や格差や問題を覆い隠している。 酒井は言う。  かれらにとって、言説の一貫性と「賢さ」には関連性がない。かれらにとっては、そのような合理性にそむくような「真理」への固執こそ、しばしば鈍重にみえるものだ。ダサいだけでなく、むしろそんなものはないほうがこの世はうまくいく、と考えているふしさえうかがえる。それは、ときにスムーズな社会の運営、たとえばいまでは「経済をまわすこと」とも呼ばれる優先事項に邪魔だからだ。 (中略) 「真理」はしばしば「過剰」としてあらわれる。たとえば、政治にとっての「真理」は、しばしば「暴動」という「過剰」としてあらわれる。エキセン的心性には、この「過剰」がそもそもいらだたしいもので、できればなしですませたいものだ。(前掲書)  私の問題意識に引き寄せて言えば、不登校やひきこもりの当事者運動も、エキストリーム・センターに呑み込まれてしまっているように思う。「真理」にこだわるような人は極端で偏っている、あるいは時代遅れのようにみなされ、排除あるいは無視され、言説の一貫性などおかまいなしに、「賢く」そのときどきの社会情勢を読みながら、それに見合った言説が振りまかれている。そして、現実にある対立や格差や問題は覆い隠されてしまう。しかし、そこで排除あるいは無視された「真理」は、けっしてなくなるわけではない。だから、どんなに鈍重であろうと、うとまれようと、そこから目をそらさず、固執していくことこそが大事なのだと思う。  この夏もくり返されている「 #学校ムリでもここあるよ 」キャンペーンや、全国不登校新聞社の動向(「 不登校生動画選手権 」「 学校休んだほうがいいよチェックリスト

切り捨てたものは、なくならない。

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長い年月、不登校は教育の一大テーマだった。しかし、近年はマスメディアで取り上げられることが増え、表面的な認知は広まる一方で、関心の深さはなくなっているように思う。当事者の語る言葉も、かつてと比べると、力を失っているように思える。ただ、かつても当事者の語りは、親の会やフリースクールなどの運動のなかで語られてきたもので、周囲の大人との関係のなかで語られてきた面が大きかった(私自身、そこに荷担していた)。そして、それはいまも変わらない。当事者の語りは、周囲の大人との関係のなかにある。 とすると、変わったのは当事者ではなく、大人側の言説の枠組みということだろう。おおづかみに言えば、それはマジョリティを問うものから、マジョリティに承認を求めるものになってきたように思う(もともと、後者の面もあったとは思うが)。 学校の求心力が強かった時代、不登校は異常視され、否定視されてきた。親の会やフリースクールの言説は、それに対するカウンターだったと言える。しかし、学校の求心力が弱まり、学校であろうと、どこであろうと、自立に向けてがんばっていればよい、という状況になると、カウンターの言説は力を失う。そして、そういう状況というのは、アイデンティティを再帰的につくりつづけないといけないということでもあって、そうしたなか、運動の言説はマジョリティを問うものから、不登校を多様性のひとつとしてマジョリティに認めてほしい、というものに変わってきたように思う。 不登校生動画選手権? それを象徴する動きのひとつとして、今月(2023年7月)、全国不登校新聞社が実施している「 不登校生動画選手権 」をあげたい。選手権のテーマは「学校へ行きたくない私から学校に行きたくない君へ~ハンディがレアリティに変わる未来へ~」で、10代からTikTokの動画を募集、最優秀賞には賞金10万円を出すという(審査委員長はタレントの中川翔子氏)。審査基準は「不登校生ならではの独創性やインパクト」や「勇気・安心・感動を与える作品か」など。ちなみに「レアリティ」とは希少性があること、レア度が高いということだろう。 私は、こういうキャンペーンは、結果として苦しみを生むだけだと思う。不登校の経験が何かに活きることはあるだろうし、不登校から考えたことが言葉や表現になることは大事なことだと思うが、それを承認や評価のための道具してしまうのは、

「不登校」の枠組みでは捉えきれない

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 文部科学省の 調査 によると、2021年度の不登校の小中学生は、過去最多の24万4940人(小学生8万1498人、中学生16万3442人)で、前年度比25%の増加、10年前と比べると2倍以上に増加した。とりわけ小学生の増加割合が大きく、不登校の小学生は10年前と比べて3.6倍となった。また、全児童生徒に占める不登校の割合は2.6%(小学生で1.3%、中学生で5%)となった。 ここで、そもそも不登校とは何かを確認しておくと、文科省の定義は下記のようになっている。 何らかの心理的、情緒的、身体的あるいは社会的要因・背景により、登校しない、あるいはしたくともできない状況にあるため年間30日以上欠席した者のうち、病気や経済的な理由による者を除いたもの。 つまり、長期欠席者の一部が「不登校」ということだ。かつては「病気」や「経済的理由」による長期欠席者のほうが多く、「不登校」は長期欠席のなかでも例外的というか、残余カテゴリーのようなものだった。ハッキリとした理由が見あたらないにもかかわらず、長期に学校を休む子どもがいて、それが「不登校」としてカテゴライズされた。1966年では、長期欠席のうち「不登校(学校ぎらい)」は2割程度。それが、だんだん「不登校」の割合が増えていって、近年は7割前後で推移していた(*1)。そのため、長期欠席=不登校というイメージが強くなっている。しかし、2021年度の数字を見ると、そこに変化が起きているようにも見える。 2021年度の長期欠席者は小中学生で41万3750人、前年度比44.5%の増加で、全生徒に占める割合は4.3%(小学生で2.9%、中学生では7.1%におよぶ)。長期欠席の内訳は、「病気」5万6959人、「経済的理由」19人、「不登校」24万4940人、「コロナ感染回避」5万9316人、「その他」5万2516人で、長期欠席に占める「不登校」の割合は59.2%だった。「コロナ感染回避」は前年度比2.8倍、「その他」は2倍となっており、「不登校」の1.25倍より、大幅に増加率が高い。つまり、長期欠席でも、「不登校」以外の理由が大幅に増えているのだ。ただし、そもそもこの内訳自体、教員が記述したものであって、実態をどこまで反映しているかはわからない。たとえば、「経済的理由」が全国で19人しかいないというのは、いかにも疑わしい(*2)。また、コロナ