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エキストリーム・センター化する当事者運動

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酒井隆史 『賢人と奴隷とバカ』 を読んでいて、「エキストリーム・センター」という概念があることを知って、いまの状況を考えるうえで、とても腑に落ちるものがあった。エキストリーム(過激)というと、極左とか極右とか、左右どちらかに振れているイメージがあるが、いま問題なのはセンター(中道)が過激化していることなのだという。 自分は穏健で中立だと自認しながら、相手を偏っているとか極端だとか言って、排撃する。あるいは自分は冷静で合理的だとしながら、相手が感情的で非合理であると言って排撃する。ネットには、そういう言説があふれているし、メディアに出ている「知識人」もリベラルを装って、現実にある対立や格差や問題を覆い隠している。 酒井は言う。  かれらにとって、言説の一貫性と「賢さ」には関連性がない。かれらにとっては、そのような合理性にそむくような「真理」への固執こそ、しばしば鈍重にみえるものだ。ダサいだけでなく、むしろそんなものはないほうがこの世はうまくいく、と考えているふしさえうかがえる。それは、ときにスムーズな社会の運営、たとえばいまでは「経済をまわすこと」とも呼ばれる優先事項に邪魔だからだ。 (中略) 「真理」はしばしば「過剰」としてあらわれる。たとえば、政治にとっての「真理」は、しばしば「暴動」という「過剰」としてあらわれる。エキセン的心性には、この「過剰」がそもそもいらだたしいもので、できればなしですませたいものだ。(前掲書)  私の問題意識に引き寄せて言えば、不登校やひきこもりの当事者運動も、エキストリーム・センターに呑み込まれてしまっているように思う。「真理」にこだわるような人は極端で偏っている、あるいは時代遅れのようにみなされ、排除あるいは無視され、言説の一貫性などおかまいなしに、「賢く」そのときどきの社会情勢を読みながら、それに見合った言説が振りまかれている。そして、現実にある対立や格差や問題は覆い隠されてしまう。しかし、そこで排除あるいは無視された「真理」は、けっしてなくなるわけではない。だから、どんなに鈍重であろうと、うとまれようと、そこから目をそらさず、固執していくことこそが大事なのだと思う。  この夏もくり返されている「 #学校ムリでもここあるよ 」キャンペーンや、全国不登校新聞社の動向(「 不登校生動画選手権 」「 学校休んだほうがいいよチェックリスト