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なたまめの話-3

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昨年、北村小夜さんからいただいた「なたまめ」は、立派なさやをつけたものの、なかなか枯れずに冬を迎えた。豆が収穫できたら記事の続きを書こうと思っていたのだが、なぜか枯れきらずに、さやが青いまま冬を迎えてしまった。( なたまめの話その1 、 その2 ) 1月ごろだったか、このままぶら下げていてもと思って、刈り取ってしまったのがよくなかった。乾かしてさやを開けると、小ぶりの豆ができていた。昨年は植えるのが遅すぎたせいか(7月初旬)、さやの中で豆が成熟しきらず、そのため枯れきらずに残っていたようだった。そして、その豆を取り出したところ、しばらしくして水分が抜けてしわしわになってしまって、どうもダメになってしまったようだった。残念、無念。 でも、北村小夜さんからいただいた豆は10粒ほどあったので、まだ手元に残っていた。今年こそはと思って、数日前に植えてみた。1年経っているので大丈夫かなと案じていたが、4粒植えて、ちゃんと4粒とも、むっくり芽を出してくれた。種のまま生命の力を蓄えてじっとしていて、条件が整えば芽を出す。種というのは、実に不思議だ。なかには、1000年前のハスの種が発芽した例もあるそうだ( 『NHK趣味の園芸 やさいの時間』2013年7月号 )。 種の状態は、はたして「生きて」いるのだろうか、それとも「死んで」いるのだろうか? 「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」という新約聖書の言葉も思い起こされる。(ヨハネの福音書12章24節) 伊藤ルイさん、北村小夜さんと渡ってきたなたまめは、なんとか次へとつなぐことができそうだ。今年こそは豆を収穫したい。また、そのうち、つづきを書く予定。 >つづき

書評:『「コミュ障」の社会学』

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『「コミュ障」の社会学』(貴戸理恵/青土社) という本を献本していただいたので、書評を書こうかと思ったのが、どうにも難しい。この本は、貴戸さんがこの10年ほどのあいだに、あちこちの媒体に書いてきた論考を集めたものなのだが、そのベースとなっているものは、この10年ほどのあいだに、づら研などの場を介して、私たちと共有してきたものでもある。なので、突き放して評することができない。むしろ、読んでいて、私自身がこの10年ほどを振り返ることにもなった。 いまの社会では、いろんなことが流動化してしまって、個人が個人としての輪郭を保ちにくく、自分のニーズさえもわからないほどに「生きづらく」なっている。にもかかわらず、一方では自己責任が迫られ、そこで生じるリスクは個人化されてしまっている。かつてのように、社会問題として人びとが連帯することも難しくなっている。そうしたなかで、いかにして共同性を立ち上げ直していくことができるか。貴戸さんは、その試行錯誤を、場をともにしながら、なおかつ研究者として書こうとしている。これはたいへん難しい作業だ。さまざまに書かれた論考の随所には、それゆえの葛藤も見てとれる。 そして、こんなことを言っては身もフタもないのだが、この本では、研究者として書かれたものよりも、エッセイとして書かれた言葉のほうがイキイキと伝わってくるものがあった。石牟礼道子さんがシャーマンのごとく言葉を産出していたように、たぶん、この領域はアカデミックな(そして近代的な?)言葉とは相性がよくないのだ。 でも、貴戸さんは、その座りの悪さを重々承知しながらも、生きづらさとしか語り得ない現象について、あるいは居場所や当事者研究のような場の意義について、アカデミックな言葉で切り取り、それを社会的に意義あるものとして通じるものにしていこうとしている。そして、それを具体的に制度を変えるような道筋につなげていこうともしている。そういう意思が、貴戸さんにはあるのだと思う。そのへんは、ともするとアナーキーになりがちな私とはベクトルが異なるのだが、そのベクトルの交差するところで、貴戸さんとは、ずっと対話してきているような気がする。 そして、そういうズレがあることこそが大事なのだと私は思っている。場をともにしていると、ややもすると「いっしょ」であることが重要になってしまって、異なる意見は排