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目の前の問題に閉じ込められずに

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不登校について、「二重の疎外」という視点を入れると、見えてくるものがある。 以前にも書いた ことで、疎外という言葉はいかにもいかめしいのだが、あらためて少し考えてみたい。 「二重の疎外」というのは、社会学者の見田宗介が言っていたことで、「貨幣への疎外」があって、「貨幣からの疎外」が問題となるということだった。人がお金でしか生活できない世界に投げ込まれてしまうと(貨幣への疎外)、お金がなくなること(貨幣からの疎外)が生死にかかわる問題になってしまう。 これを学校にあてはめても、同じことが言える。「学校への疎外」があって、「学校からの疎外」が問題となる。学校へ行かないと就職が困難になってしまう世界(学校への疎外)では、不登校(学校からの疎外)が問題となる。不登校が問題とされてきたのは、そもそもは人びとが学校へと疎外されてしまっているからだと言える。 しかし、多くの場合、学校への疎外は意識すらされていない。お金を稼がないと生きていけなくなっていること(貨幣への疎外)が、おかしいとは思えなくなっているのと同じように、学校に行くことは疑われることなく、そこに行けなくなることの不利益ばかりが問題にされてきた。 不登校の当事者運動では、学校への疎外を問うていた面もあったように思う。あるいは、「オルタナティブ」という言葉も、学校への疎外に対するオルタナティブを求めていた面もあったように思う。しかし、だんだんとその問いは後退して、いまや学校への疎外を前提としたうえで、その学校(教育機会)を多様化することばかりが言われるようになった。ただ、いくら学校(教育機会)を多様化しても、学校への疎外(「教育への疎外」と言うべきかもしれない)はますます徹底され、その苦しさは深まるばかりだろう。 ここまでは、 以前にも書いた 。もう少し考えてみたい。 ●ドリーム、イマジン、対話 教育機会の多様化というのは、いまの社会のあり方をそのままに、そのなかで個人が能力を磨いてがんばるためのものだと言える。つまり、個人モデルだ。あるいは、貧困問題で学習支援の必要性が言われる場合も同じだろう。個人モデルは、個々人にとっては必要な面もあるとは思うが、根本的には社会を変える力にはならない。 ただ、学校への疎外自体を問題にしようとすると、貨幣への疎外を問題にするのと同じで、たいへんラジカル(根本的)な問いになる。そもそ

「鬼はソト」問題-2

「鬼はソト」問題について、もう少し考えてみたい。 先の記事 では、小集団のなかでの対話の難しさについて考えたが、場のなかで何か被害が生じたときにも、同じ構造の問題はあるように思う。たとえば、パワハラが生じやすいのも、パワハラが生じた際にその被害を訴えにくいのも、場が温情的なタテ関係で成り立っていることに問題があるように思う。その場における中心的な人物が、その力関係のなかでハラスメント行為をしているとき、それは場のノリをつくっていて、そのノリが場を構成している。それは、いじめの構造と同じで、いじめは加害者と被害者だけではなく、聴衆や傍観者を含んだ場の構造として生じている。それゆえ、被害者は、被害を被害として認識することすら難しく、それがおかしいと思っても、被害を訴えることは、加害者を訴えるだけでは済まず、場そのものを壊してしまうのではないかとおそれざるを得ない。そのため、いじめやハラスメントはエスカレートしてしまう。被害者は、その場のソトに出ないかぎり、被害を自覚することも、それを訴えることも難しい。場のウチでは、ノリに同調する人しか生きられないようになっている。 先日、NHKで放送された「六畳間のピアノマン」というドラマでも、パワハラを受けている新入社員が、上司からどんなに理不尽な目に遭っても、それを自分への指導として捉え、居場所を失うことへの恐怖から、被害を被害として認識できずにいるようすが描かれていた。また、その場から離れても、なかなか、そのときの関係の支配から逃れることが難しい。温情的なタテ関係のなかでの支配は、人の内面を深く侵食してしまうのだろう。その支配から逃れるには、その被害がきちんと周囲に受けとめられる必要があるし、ほんとうは、そこに関わっていた、その場にいた人たちが、その構造のそもそものおかしさを共有し、問い直していく道筋が必要なのだと思う。 被害に遭った人だけがソトに出て、そこから問題を訴えても、その訴えは表面的にしか受けとめられず、場のウチにいる人には、なかなか受けとめられないことが多い。あるいは、加害の問題が明らかになっても、今度は加害者もソトへと排除し、「鬼」とすることで、場を維持していこうとする。そうなると、問題を生み出した構造はそのまま、被害者の訴えの根にある問いは無視されたまま、解決のための体裁だけがつくろわれることになる。 東京シュー

「鬼はソト」問題-1

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今年の節分は2月2日だったそうだ。節分と言えば、「福はウチ、鬼はソト」の豆まきだが、はたと、ここにはかなり根深い意識が潜んでいるように思えてきた。 人類学者の中根千枝は、かつて、日本の書評には「ほめる書評」と「けなす書評」のふたつしかなくて、ふだんの会話でも、異なる意見が対話によって弁証法的に発展するようなゲーム的なおもしろさがない、というようなことを言っていた(『タテ社会の人間関係』講談社現代新書1967)。日本では、自分の所属する小集団の力が大きくて、その場の考えと個人がべったりいっしょになってしまっていることが多い。個人が資格によって契約として場をともにするのではなく、親分子分のようなタテの温情的な関係で場が成り立っているので、ウチ・ソトの意識がたいへん強く、ウチの人間に対しては徹底して守るものの、いったんソトに出てしまった人の言うことはまったく相手にしない。それゆえ、異なる意見どうしの対話のようなことが成り立たない。パワハラやブラック企業のような問題も起きやすい。そして、それは一部の企業などの問題ではなく、ほぼ例外なく、どこでも起きうる問題なのだろう。 社会運動においても、社会の問題をラジカルに問う一方で、自分の足下の場においては、異なる意見を抑圧し、排除してしまいがちだ。結果、その集団は同じような考えを持つ人のみの集まる場になって、個人と集団がべったりいっしょになってしまう。それは、いじめの構造と同じだと言っていいだろう。社会運動の場合、それが正しさを背負うぶん、よけいに排除を合理化してしまいがちで、エスカレートしやすい面もあるように思う。 「地獄への道は善意で敷きつめられている」という格言が思い出される。正しかったり、善意であるときほど、こうした構造の問題をわきまえないといけないように思う。たとえば、ある場で差別的な言動をする人がいたとして、それが差別だと指摘したり批判することは大事だが、その人をたんにソトに排除するだけでは、場の安全は保たれるようで、上記のような構造はかえって強化されてしまう。そして、その場が同質的になればなるほど、どんどん細かな差異が顕在化して、排除の傾向を強めてしまう。そうなると、「鬼」が増えていくばかりで、排除された側も、自分の考えをあらためるどころか、かえって強化することにもなりかねないように思う。 もちろん、何でも異なる意見に

99%のために

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メディアで不登校について取り上げられる際、くり返されるパターンのひとつに、成功例パターンがある。学校に行かなくなって親や周囲から否定され、自分自身、学校だけがすべてと思って自分を否定して、死を思うほど追いつめられていたが、フリースクールやホームエデュケーションなどに出会って救われた、学校以外でも子どもの学び育つ場はあって、そうした道を経て、いまは立派に社会人としてやっている人は多くいる、だから学校には無理に行かなくてもいい、学校に行かなくても社会ではやっていける、というような。私自身、こうした言説に加担してきたので、くり返し戒めるのだが、ステレオタイプと化したこうした言説は、解決になるどころか、それ自体が問題の一部だと言っていいだろう。 最近、 『99%のためのフェミニズム宣言』 という本を読んだのだが、フェミニズムでも、一部の成功者を引き合いに出して、女性の地位向上を謳うようなフェミニズムがあって、それを「リベラル・フェミニズム」というそうだ。そのリベラル・フェミニズムを、この宣言は次のように厳しく批判する。 リベラル・フェミニズムは、解決策を提示することはおろか、それ自体が問題の一部なのである。グローバル・ノースにおける経営者層に集中するそれは、「体制の一員になる(leaning-in)」ことと「ガラスの天井を打ち破る(cracking the glass ceiling)」ことを重要視する。特権を持つごく少数の女性たちが企業と軍隊の出世階段をのぼっていけるようになるという、そのことばかりに尽力した結果、リベラル・フェミニズムは市場中心の平等観を提唱することになった。その平等観は、現在世の中に蔓延する「多様性」に対する企業の熱意と完璧に符合する。「差別」を糾弾し、「選択の自由」を掲げているとはいえ、リベラル・フェミニズムは大多数の女性たちから自由とエンパワメントを奪う社会経済的なしがらみに取り組むことを頑として避けている。それがほんとうに求めているのは、平等ではなく能力主義なのだ。社会における序列をなくすために働きかけるのではなく、序列を「多様化」し、「勇気を与えてくれるような」「才能ある」女性たちがトップへと駆け上がることを目指すのである。女性全体を単純に「過小評価されている」集団とみなすことによって、リベラル・フェミニズムの提唱者たちは少数の特権的な人々が同