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5月, 2021の投稿を表示しています

怒りを憎しみへと矮小化させないこと

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自分の書いたものについて、その内容で批判されることは歓迎しているし、批判は大事なことだと思っている。しかし、内容についてはまったく触れられないまま、書いたことで傷ついた人がいるといったことで、書いたことが問題にされたり、やめるように言われることがある。もちろん、それが誹謗中傷や人格攻撃になっているということであれば、その声を受けとめ、立ち止まらないといけないだろう。しかし、どうもそういうことではなく、批判すること自体に傷つけられたと言われることが、ままあるように思う。 SNSなどにおける「炎上」の場合も、それが暴力(誹謗中傷や人格攻撃)の増幅なのか、批判の増幅なのかは大事なところで、いずれにしても増幅のあやうさはあるが、批判を抑止したいがために、それを暴力だと言い立てることもあるように思う。 ●暴力/対決、憎しみ/怒り ふと、映画『遠い夜明け』のワンシーンを思い出した。『遠い夜明け』は、南アフリカのアパルトヘイトに対して闘っていたスティーブ・ビコを描いた映画だが、そのなかで、裁判にかけられたビコと裁判官のあいだで、下記のようなやりとりがあった。 裁判官:つまり君は黒人を暴力に駆り立てるわけだ。 ビコ:我々の運動は暴力には反対してます。 裁判官:だが君は対決を叫んでおる! ビコ:ええ、対決を求めます。 裁判官:それは暴力を求めることなのでは? ビコ:いま、私とあなたは対決していますが、どこに暴力が? 裁判官:……。 対決することは、暴力ではない。支配者層は、問題が明らかにされることをおそれ、対決自体を暴力だとして、問題を提起する側を暴力的だと指弾する。あげく、露骨な暴力で弾圧し、それを暴力を抑止するためだとして正当化する。 また、アメリカで人種差別と闘っていたマルコムXは、マスメディアでは「憎しみを煽るテロリスト」とされていたという。しかし、酒井隆史(社会学者)は怒りと憎しみは異なるとして、次のように言う。 マルコムは、憎しみを煽ったというのではなく、むしろ、黒人たちの自己や他者にむかう憎しみを怒りに変えたというべきです。この二つの感情はわかちがたくからまりあっているとはいえ、憎しみは状況総体や制度ではなく特定の人間や集団にむかいがちです。憎しみは、その感情をもたらす原因に遡り、根源的次元から根絶しようというのではなく、その結果であるもの――人間、集団―を排撃したり殲

「フリースクール全国ネットワーク調査検証委員会中間報告」への疑問

フリースクール全国ネットワークから、「 フリースクール全国ネットワーク調査検証委員会中間報告 」が発表された。 この委員会は、東京シューレにおける性暴力事件発覚を契機として、フリースクールで発生する人権侵害事件に関する予防や対応に取り組んでいく必要から設置されたものだという。 しかし、事件そのものの検証は、別に設置されている第三者委員会において進められており、当然のことだと思うが、フリースクール全国ネットワークの設置した検証委員会では、事件そのものの検証はできないとのことだ。そのうえで、人権侵害予防のための行動規範の策定、人権侵害事件が生じた場合の対応方針や相談体制の策定、組織体制の課題及び改善策の提案などがなされている。 これは中間報告で、寄せられた意見をもとに、最終報告にまとめるという。 私も、この事件については証言や発言をしてきており、一個人として意見を送るべきかと思ったのだが、報告書の内容以前に、いくつか疑問があり、さしあたって、それを呈示しておきたい。 1.委員会の構成について 副委員長の安井飛鳥弁護士について、Twitter上での言動が問題だと指摘する声があり、当該事件の被害者の方からも、特定委員の人権感覚・倫理観が問題であるとして、検証委員会から外すよう要望されている。私自身は、安井弁護士の言動について確認しきれていないが、委員会設置の契機となった当該事件の被害者から表明されている意見に対し、フリースクール全国ネットワークは応答しているのだろうか。少なくとも、現時点において、ホームページに見解は示されていない。応答のないままに、中間報告を発表しているとすれば、それはなぜなのか。 2.事件の検証がすむ前に報告書をまとめていること。 当該事件については、第三者委員会による検証作業が進められているという。そうであれば、その検証作業がすんでから、その報告をもとに、フリースクール全国ネットワークが、ネットワークとしての検証作業をすべきではないか。直接、事件の検証ができないことは理解できるが、第三者委員会による事件の検証を待たずに、一般論として、ほかの事例などをもとに検証報告を出すことは、本末転倒ではないか。当該事件においては、フリースクールのあり方自体が問われている面がある。その検証を経ずに報告をまとめることは、事件を軽視していることになるのではないか。  * 

ボーッとできることに居直らず

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チコちゃんの「ボーっと生きてんじゃねえよ!」ではないが、ボーッと生きていられるのは、自分がマジョリティの側にいる場合のように思う。たとえば、左利きの人は、電話だとか、改札だとか、ハサミだとか、さまざまな場面で不便があるというが、それは右利きの人には気づきにくい困難さだろう。あるいは、日本という国に日本人として生きていれば、外国人と比べれば、ボーッと生きていられる。言葉はもちろんのこと、社会通念だとか、空気のようにあたりまえにしている無意識的な文化や環境に、さして違和感を覚えることなく過ごせる。ところが、自分が外国に行くと、ふだんであればボーッとしていてすむことでも、意識せざるを得ないことが格段に増えるし、逆に、ふだん自分が無意識にあたりまえのものとしてきたことに気づいたりする。外国でなくても、たとえば住む地域が変わると、ずいぶん発見があったりする。あるいは、ちょっとケガをしたとか、病気になったときなども、ふだんはボーッとしていてもできていたことが困難になって、そこで気づくことがある。 ●コロナ疲れは 少し話の筋は変わるが、コロナ禍においても、ふだんはボーッとしていてもよかったことを、いちいち意識しないといけなくなった。コロナ疲れは、ボーッとできないことの疲れでもあるだろう。あるいは、オンラインのミーティングなどでも、対面のときには空気のように感じとっていたものが感じられず、私なんぞは、どっと疲れてしまう。しかし、誰にとっても対面のコミュニケーションのほうがよいのかといえば、一概にそうとも言えない。たとえば、発達障害の自助グループでは、空気を読んだり、しゃべるのは苦手だが、文章化は得意という人も多く、むしろオンラインによってコミュニケーションが活発になったという話も聞いた。自分がボーッとできる場というのは、ほかの人にとっては苦労があったりする。しかし、そういうことには、なかなか気づきにくいように思う。 自分がマジョリティの側にいることというのは、自覚しにくいことだし、知らないうちに他者を抑圧してしまっていることもある。それをすべて意識化するというのは、無理なことだろう。それゆえ、マイノリティへの偏見や無理解などは、はしなくも漏れ出てしまうことがある。 ●マイクロアグレッション 少し前に、『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』(デラルド・ウィン・スー/明石書店