投稿

4月, 2018の投稿を表示しています

フィルターに濾過されてしまったものは

イメージ
不登校新聞が創刊20周年を迎えた。そのことについて書くべきことは不登校新聞の記事(481号)に書いたので、よかったら読んでいただくとして、20年前のことを思い出していて、こういうことも忘れられてしまうから、少し書いておいたほうがよいかなと思ったことがある。 印刷所のことだ。 学生時代(92~95年)のことから書くと、学生新聞をつくっていたとき、ふたつの印刷所を利用していて、そのうちひとつは活版印刷だった。大学のそばにあった印刷所で、おじさんが真っ黒になりながら、ひとつひとつ、鉛の活字を拾っていた。校正で赤をたくさん入れたりすると、「いまからは勘弁してよ」と言われたりして、入稿前に、なるべく校正が少ないようにしないといけなかった。 もうひとつの印刷所は、不登校新聞を始めたころと同じシステムで、写研という会社のシステムを使っていた。まず、手書きかワープロの原稿を入稿して、印刷所の人がそれを文字入力して(当時はワープロでもデータ入稿はなかった)棒ゲラというゲラにしてくれる(新聞の1段の状態)。そこで初校。これが記事本文。 同時並行で、写真は写真製版に、見出しは写植の職人さんに打ち出してもらう。すべては伝票を使って指定する。見出しは、書体や大きさ、地紋などを指定。その際、倍尺というものさしみたいなので測って、入る文字数を計算する。写真製版の指定では、トレーシングペーパーでトリミングの位置を指定して、拡大・縮小・原寸とかを指定する。大きさは、やはり倍尺で指定(ちなみに、1倍は活字1マス分の大きさのことで、それが基本単位になっていた)。 倍尺、地紋帳、テープレコーダー…… そうやって、校正したり指定したものが、それぞれ出てくる。棒ゲラ、写真、見出し。それらを今度は別の職人さんが割付用紙の指定に沿って、組版して「大ゲラ」にしてくれるのだ。大ゲラになったものを、2~3回校正して、校了したら、その版をフィルムに撮って、輪転機にかけられて印刷される(下版)。 下版するまでの作業は膨大量だった。気むずかしい職人さんたちとコミュニケーションをしないと作業が進まなかったし、「指定がわかんねえよ」とか、怒られたことも多々あった。印刷所には「進行さん」という統括する人がいて、その人を介しながら、それぞれの作業工程がまとまって、新聞ができていった。不登校新聞で最初