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黄色いタクアンのメモリー

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先日、食事に黄色いタクアンが出てきて、ふと思い出したことがある。  小学生のころのことだ。友だちとどこかに出かけた折、その友だちのお母さんがおにぎりをつくって持たせてくれたのだが、そこに自家製の黄色いタクアンが入っていた。いまでこそ発酵食品は大好きだが、当時の私にとって、そのタクアンはにおいが強烈で、とっても食べられそうになかった。それで、友だちの目を盗んで、ゴミ箱にタクアンを捨ててしまったのだった。でも、捨てたことは友だちに察知されてしまって、その友だちは、「食べ物を捨てるなよな……」と、悲しそうに、そして吐き捨てるように言った。私は、友だちも、友だちのお母さんの気持ちも傷つけてしまったようで、自分がたいへん恥ずかしかった。冷や汗というものを知ったのも、そのときが初めてだったかもしれない。  そんなことは、ふだんは忘れてしまっていて、自分から思い出すことはない。記憶というのは、自分に都合のよいように整理してしまっているもので、都合の悪いことはフィルターの向こう側に追いやってしまっている。もちろん、何でもかんでも覚えていられるものではないし、忘れることが必要なこともあるし、誰しも勝手に記憶を都合のよいように整理して生きているものだろう。  しかし、忘れていたと思っていても、黄色いタクアンのように、ふとしたきっかけで、呼び起こされる記憶もある。都合の悪い記憶というのは、自分から思い起こすことはできないのかもしれない。だからこそ、「外」から呼び起こすノックがあったときは、なるべく素直に受けとめたいと思う。自分にとって痛い記憶でも(だからこそ)、そのノックを無視したり、なかったことにしてはいけないように思う。  タクアンをかじりながら、ほろ苦い思い出をかみしめる新年だった。