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書評:『「不登校」は心の問題なのか?』

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私が統括をしていた 不登校50年証言プロジェクト では、さまざまな方にお話をうかがったが、そのなかでも一番問題意識が近いというか、感覚的に近いと感じていたのは、中島浩籌(なかじま・ひろかず)さんだった。その中島さんが『「不登校」は心の問題なのか』という本を出されたというので、さっそく拝読した。 中島さんは、高校の教員をしていたものの、そこから逃げ出して、フリースクールや予備校などを通じて、不登校経験者と関わってこられた。中島さんが一貫してテーマとしているのは、「逃げる」ことだ。 不登校はある時期から「怠け」だとか「逃げ」だとか言われるようになって、「心の問題」とされてきた。いまでは、かつてほど病理のように扱われることはなくなってきたが、いまだに心の問題とされていて、本人をどうにかしないといけない問題だとされている。しかも、不登校への偏見は薄まったようでいて、かえって「自立」のためにがんばらないと認められないような構図になって、ますます「逃げる」ことは難しくなっている。 不登校しても社会的に自立できるだとか、そのためには、きめこまかな切れ目のない支援が必要だとか言われているけれども、そんな支援の網の目からも逃げ出したくなる。しかし、いまや不登校の子どもにかぎらず、すべての子どもに対して個別最適化された教育が目指されており、評価のまなざしはどこまでも隙なく張りめぐらされようとしている。不登校したからといって、そのまなざしから逃げられるわけではなくなってしまっている。まったく、げんなりぐったりしてしまうが、教育機会確保法などでは、フリースクール関係者が進んでそれを望んでいったところがあった。 もちろん、これまでのような画一化された学校が正しいというわけではない。しかし、自主性や多様性を求めた運動が、なぜ人材育成のための道具のようになってしまったのだろうか……。 人によっては、だからこそ、そこできちんと対峙して闘うことが必要だというだろう。けれども、意識的に闘うというよりは、どうしても逃げたくなってしまう、という感覚のほうが、不登校の当事者のリアリティに近いのではないだろうか。 そもそも、「逃げる」ことは悪いことなのか。中島さんは、哲学者のドゥルーズを引きながら、「逃げる」ことは創造的な行為なのだという。「逃げる」は、フランス語ではフュイールfuirといって、「漏れ出す」と