下村博文氏献金問題、特区、フリースクール支援……

下村博文文科大臣の献金疑惑が問題になっている。2004年に、構造改革特区で公設民営学校が導入された際にも、背景に塾業界からの献金があったとの指摘もある(3月10日衆院予算委で宮本岳志議員/しんぶん赤旗2015年3月11日)。事実であれば、利益誘導政治と批判されてしかるべきだろう。

いま、「フリースクール支援」の動きが起きているが、この動きも、下村大臣が主導してきたものだ。フリースクールには「献金」できるような団体はひとつもないだろうが、関係者は、この問題について、きちんと考えておくべきだと私は思う。

さしあたって、ちょっと長くなるが、参考までに拙著『迷子の時代を生き抜くために』(2009北大路書房)から引用しておきたい。だいぶ前に書いたものだが、読み返してみて、いまでもまったく同じ問題があると言えるように思う。
たとえば構造改革特区は、大きな枠組みとしては、市場原理の活性化のために規制緩和するということだ。教育分野にしても、学校という「聖域」に市場原理を導入することが第一の目的とみていいだろう。これまで学校の設立は学校法人にかぎられていたが、株式会社やNPO法人でも設立可能になった。しかし、株式会社による学校設立が大学・大学院8校、小・中・高校19校あるのに対し(2008年現在)、NPO法人による学校設立は1校もない。先にあげたシュタイナー学園や東京シューレ葛飾中学校の場合は、学校法人として学校を設立している。これも大幅な規制緩和があってのことだが、それでも、既存のフリースクールやオルタナティブスクールで学校を設立できるところは、ほとんどないと言っていいだろう。

数が少ないとはいえ、シュタイナー学園や東京シューレ葛飾中学校のようなオルタナティブスクールやフリースクールが制度的な位置づけを得たことについて、一定の評価はできるだろう。しかし、たいへんイヤな言い方をすれば、これらは、株式会社を参入させるための“当て馬”にされたという懸念もある。それはうがった見方にすぎるとしても、大きな流れとしては、特区が市場原理のための規制緩和だということは事実だ。

●不登校するのは才能のある子?

2005年、文科省の下村博文政務官(当時)は、フリースクールなどとの懇談会を数回にわたって開催するが、下村政務官は不登校について、次のように語っている。
今の公教育は画一・均一教育です。近代工業化社会、高度経済成長までの義務教育はそういうものでよかったと思います。しかし、これからの時代は脱近代工業化社会です。それぞれの個性、人間的な魅力が社会にどう貢献できるかが問われている。それに対して、今の学校教育システムは対応できていません。ですから、学校教育以外の部分で、子どもたちをフォローアップできるところがあれば、学校として認めていくべきだと思います。(『Fonte』181号/2005年11月1日)
これは、オルタナティブ教育関係者のあいだでも語られてきた言説だ。ある意味では的を得た指摘だと言えるだろう。しかし、私は、この考え方には違和感を覚える。たしかに、そうした面はあるとしても、それでは、結局、人の商品化を深めるばかりで、不登校というかたちで子どもが告発してきたこととは、決定的にズレてしまうように思うのだ。

学びの多様性というとき、それが商品の多様性と同じものになってしまうならば、それは教育産業でしかない。スーパーで売られているものが多様なのに生命の多様性を感じさせないように、フリースクールやホームスクーリングの学びが、商品としての多様性のひとつになるならば、それは、どの商品がいいかを選ぶのと同じ選択でしかなくなってしまう。

再度、下村氏の発言を引こう。
  ――下村さんは「国家戦略としての義務教育の在り方」とおっしゃっていますが? 
 21世紀に国が国民に対して果たす役割というのは、教育立国として、国民が意欲を持って学習できる最大限のチャンス、環境を国が与えるということだと思います。一人ひとりの意欲、能力をバックアップする。個々人が魅力的な人間として能力を高めていけば、それだけ社会で働くチャンスが広がります。それが結果的に国を豊かにすることになる。教育における財政的な措置をふくめ、学びたい人が学べる環境を国がつくっていくことが国家戦略です。
エジソンも、きっと今の時代では不登校になるような子どもだった。不登校児というのは、能力のない子どもじゃなくて、きらめくような才能や能力があっても、これまでの学校制度では適応できない子どもたちで、そういう子はたくさんいると思います。そんな子どもたちが通えるような、さまざまなタイプの学校があればいいと思うし、既存の学校も含めた自由な選択が必要だと思います。(前掲紙)
不登校というのは、理由のよくわからない混沌としたものだった。どんなに行政が数を減らそうとしても増えるばかりで、もっともやっかいな領域としてあったのだと思う。構造改革特区などの動きは、その混沌としたものを腑分けし、そこから商品価値のあるものだけを掬い出そうとしているとは言えないだろうか。学校に行こうが行くまいが、この資本主義社会でやっていけるかどうかは個人の能力次第で、その能力を磨くのは、従来のような学校でなくともかまわない。しかし、能力を売ることのできない人間は、医療の対象とさえなる(たとえば発達障害)。不登校が人を商品として見る視線からの撤退だとしたら、そこにも人を能力で選別する視線が及ぶことは、子どもたちの圧迫感を深めることになるだろう。

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