手弁当パラドックス

てべんとう【手弁当】:自身で弁当を持参すること。また、弁当代を自弁すること。また、報酬を当てにせず奉仕すること。手弁。「―で選挙の応援をする」(広辞苑第6版)


NPO活動の界隈では、「手弁当でやっている」と聞くことが多い。 「手弁当」は、広辞苑では「報酬を当てにせずに奉仕すること」となっているが、実際は、当てにしていても無報酬だったり、低賃金だったり、サービス残業だったりするということも多い。なぜ、そうなるのかと言えば、市場サービスでも行政サービスでも届かないような領域の活動を、市民が自分たちの力でなんとかしようとしているからだろう。

お金や制度でドライに割りきってしまうのでは、成り立たない領域がある。しかし、それを手弁当で成り立たせようとすると、無報酬や低賃金労働が常態化し、いわゆる「やりがい搾取」になってしまう。また、活動をするには、家賃や光熱費など人件費以外にもコストがかかり、その費用は市場に払っている。収入は不安定にもかかわらず、支出は確実に出ていく。調整弁とできるのは人件費しかない。そういうことが多いように思う。

手弁当の活動は、常に矛盾に引き裂かれている。その矛盾を自分にしわ寄せすることで、なんとかやっている。結果、活動の理念に反して、肝心の活動する人自身が疲弊してしまうということも多い。それでも活動を続けることができる人というのは、その矛盾を抱え続けられるだけのタフさがあるか、それだけのサポートを得られる人にかぎられてしまう。

また、手弁当であるがゆえに陥りやすい問題もある。手弁当でやっていると、どうしても「こんなに一生懸命、手弁当でやっているのに」という気持ちになってしまう。そこで、相手(あるいは仲間)が思うように動かなかったり、うまくいかないことがあると、相手への思いが反転して、憎悪のような気持ちが生じてしまう。ややもすれば、それはハラスメントにつながってしまうだろう。

あるいは、費用が安かったり無償だったりすると、利用する側は、活動の理念にまで共感しているわけではなく、たんに安いサービスとして利用していることもある。そうであってもかまわないのだが、活動をしている側からすると、たんに安く利用されているだけという気持ちも生まれてしまう。活動する側が「ともに活動をつくりたい」と思っていても、利用する側からすると、それはひとつの道具でしかないということもある。

理想的には、手弁当の活動は、お金を払って消費するだけのサービスとはちがって、ともに考え合い、対話し、そこから活動を生み出していくものでありたい。しかし、理念を徹底しようとすれば先鋭化し、ややもすればカルトになってしまう。あるいは、理念には共感しても、「当事者」には、ともに活動していくだけの余力がない場合もある。

さらに言えば、手弁当の活動の世話になるというのは、それを利用する側に、負債感を与えてしまうこともある。対価をきちんと払っている場合には、そこで決済されるはずのものが、無償だったり、手弁当でまかなわれている場合は、関係が非対称になってしまう。意図はしていなくとも、そこに独特の力関係が発生してしまう。これも、ややもすればハラスメントの温床となってしまう。

手弁当の世界はパラドックスに満ちている。だからダメだと言いたいのではない。矛盾があるのは、ある意味当然で、だからこそ考えることもたくさんあるし、そこで生まれるものもあるのだと思う。ただ、そこで生じていることに対して、「正しい活動をしているのだから」と、その矛盾を抑圧するようなことは、してはならないのだと思う。そして、矛盾が顕在化したときには、真摯にそれを受けとめ、外に開いて考えていくことが必要なのだと思う。

また、こうしたどろどろの矛盾に対して、上空からながめるような乾いた批判はむなしい。なぜなら、手弁当の活動にある矛盾は、多かれ少なかれ、誰しもの足下の問題でもあるからだ。NPOなどでなくとも、職場や家族のなかで、お金や制度で割りきれない領域はかならずあって、それゆえの矛盾はあるものだろう。自分の足下をさておいて、他人事のように批判することはできないのではないか。手弁当パラドックスは、自分の足下からこそ、考えていく必要がある。

深く自戒を込めつつ、そう言いたい。


イラストは、ソルシエールさん(イラストACより)

コメント