「仕組み」に隠れるのではなく

 人は人のことを外形的なところで判断することが多い。たとえば、学歴だとか資格だとか会社名だとか収入だとか。あるいは、何かの被害があって、それを裁判などで闘う場合などでも、同じようなことはあるだろう。被害の程度は外形的に金銭に置き換えられ、算定される。それはそれで、仕方のない面もあるのだろうけれど、内実的なところから声を発して、それを人の内実に向かって届けたいと思っているとき、それが外形的なところだけで処理されてしまうのでは、とても悲しいし、とてつもなく、むなしい。

ふと、水俣病患者の認定問題で、チッソや行政と闘っていた緒方正人さんのことを思い出す。緒方さんは、闘争のなかで、「自分が目に見えないシステムと空回りしてけんかしているような気がしてきた」と語り、認定闘争を途中でやめてしまう。そして、チッソの前にゴザを敷いて座り込み、ひとりひとりの社員に向かって、対話を呼びかけていた。緒方さんは言う。

加害者チッソとは「仕組みとしてのチッソ」「構造としてのチッソ」のことなのではないか。その中に生身の人間がいたはずだし今もいるけれども、仕組みの陰で逃げ隠れしているのではないか。ですから、株式会社チッソとしては、判決で負ければ、責任もいやいや認めるし補償もしてきたわけですが、人としての責任は四十数年たっても認めていない。つまり、的のはずの人間には問いが突き刺さっていなかったということを言いたいのです。(『チッソは私であった』葦書房2001)

そして、緒方さんは、その「仕組みとしてのチッソ」は、自分自身のことだとも言う。

私は、チッソというのは、もう一人の自分ではなかったかと思っています。私たちの生きている時代は、たとえばお金であったり、産業であったり、便利なモノであったり、いわば「“豊かさ”に駆り立てられた時代」であるわけですけれども、私たち自身の日常的な生活が、すでにもう大きく複雑な仕組みの中にあって、そこから抜けようとしても、なかなか抜けられない。まさに水俣病を起こした時代の価値観に支配されているような気がするわけです。

この四十年の暮らしの中で、私自身が車を買い求め、運転するようになり、家にはテレビがあり、冷蔵庫があり、そして仕事ではプラスチックの船に乗っているわけです。いわばチッソのような化学工場が作った材料で作られたモノが、家の中にもたくさんあるわけです。水道にしてもそうですけど、パイプに使われている塩化ビニールの大半は、当時チッソが作っていました。最近では液晶にしてもそうですけれども、私たちはまさに今、チッソ的な社会の中にいると思うんです。ですから、水俣病事件に限定すればチッソという会社に責任がありますけれども、時代の中ではすでに私たちも「もう一人のチッソ」なのです。「近代化」とか「豊かさ」を求めたこの社会は、私たち自身ではなかったのか。自らの呪縛を解き、そこからいかに脱していくのかということが、大きな問いとしてあるように思います。(前掲書)

そういう意味で言えば、水俣病は私たちの「病」だろう。この「仕組み」から脱することは容易ではない。けれども、期せずしてそこからはみ出してしまったとき、たとえば学校に行けなくなったり、ひきこもったりしたとき、そこで人がまず求めるのは、学校や会社といった「仕組み」にもどることよりも、生身の人との内実的な対話、なのではないだろうか。

あるいは、もし加害・被害という事態が生じてしまったとき、それが少しでも希望につながるとしたら、それはやはり、補償といった外形的な解決策だけではなく、生身の人どうしの内実的な対話の先にあるのではないだろうか。もちろん、それは簡単なことではないし、ややもすれば、二次被害を生じさせてしまいかねない。しかし、だからこそ、たとえば「修復的対話」といった工夫も模索されているのだろう。また、そこで求められるのは、加害・被害の当事者だけではなく、関わる人たちすべてが、そこでどういう対話ができるかだろう。

何より、自分自身が、「仕組み」に隠れるのではなく、生身の自分を差し出して、対話に開かれていられるようでありたいと思う。

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