11.2 STOP! 多様な教育機会確保法案フォーラム

11月2日、東京・代々木で開かれた「STOP! 多様な教育機会確保法案」フォーラムに、パネリストのひとりとして参加してきた。弁護士の石井小夜子さんの解説に始まり、不登校経験者や親の立場からの発言もあり、充実していたが、とりわけ、金井利之さん(行政学)のお話が明解でおもしろかった。IWJのUSTREAM配信で録画が閲覧できるようだが、残念ながら金井さんの話が途中で切れてしまっている(後日、Youtubeでもアップされるのではないかと思う)。
くわしくは動画を観ていただくとして、自分の発言については、下記に要旨をアップしておきたい。(山下耕平)
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今日は古くから不登校に関わってきた人たちも多く来ているが、その方たちは、この法案を通じて、自分たちが関わってきた、この運動はいったい何だったのかという思いがあるのではないか。私自身、そういう思いが深くある。
この法案は、上から降ってきたものではなく、フリースクール関係者が求めてきたものでもある。そこに大きな問題を感じる。なぜ、こういうものが出てきたのか、フリースクールが安倍政権のような新自由主義と握手してしまったのはなぜなのか? 仮に法案がどうなろうと、大きな問題が横たわっていると思う。

・不登校とフリースクールはいっしょではない
もともと、不登校とフリースクールは、重なる部分はあるが、いっしょではない。文科省の調査では、フリースクールに通う小中学生は4200人、不登校児童生徒の3.5%だった。フリースクールは、不登校の子どもの声の全体を代弁しているわけではない。不登校に関わる活動にも、いろんなニュアンスがある。オルタナティブスクール、フリースクール、フリースペース、居場所、親の会、ホームエデュケーションなど、さまざまで、それらがないまぜだった面もある。それが豊かさでもあったのだと思うが、この10年ほど、何かおかしくなってきたのではないか。

・法案は、推進側が従来求めてきたものでもない
この法案は、推進者が求めてきたものとも異なっている。もともとは、教育基本法のもとに、学校教育法と並ぶものとして「多様な学び保障法」を求めていたはずだ。現法案は、それとはまったく異なっている。不登校のなかでも学校復帰の見込みのない約1万人というのが、立法事実になっている。フリースクールなどの理念を学校と対等に認めているわけではない。不登校に立脚するのであれば、不登校の現実に即して考えるべきだろう。

・ベクトルが逆向き
法案には、親の会を中心に、関係者から多くの批判があがっている。本来、そういう懸念の声は、推進側が議員に対して代弁すべきものだ。推進する側こそ、懸念の声を共有して議員に届けるべき。ところが実際は、議員の声を代弁して、懸念を示す人を説得している。ベクトルが逆向きで、おかしな構図になっている。こんなことでは仮に法案が通っても、先行きが知れているというほかない。
推進側は「個別学習計画は柔軟に運用できる」と言っているが、根拠にしているのは、馳議員の見解のみ。しかも、馳議員は、過去の体罰が問題になった『正論』の対談で、逆向きの発言もしている(→参照)。

・新自由主義との握手
安倍政権は、教育予算は削減して、「選択と集中」でエリートに重点配分する方向にある。不登校政策もその一環で、「未来のエジソンやアインシュタインを発掘」するためのフリースクール支援になっている。仮に、個別学習計画を履行した人に、はした金が出たとしても、大枠としては、そういう思想に貫かれている。一部の人だけを抜き出せればいいというもので、不登校の子どもたちが自分の存在をかけて問うてきたことに応えるものでは、けっしてないだろう。
推進側は「学校の外を認めてほしい」と言っているが、その「学校」とは何か。能力主義や成果主義が広がるなかで、学校と塾との連携も拡大している。その一環としてフリースクールなどが位置づくのであれば、フリーでもオルタナティブでもない。80年代の枠組みで、学校に対するフリースクールを考えるだけではなく、市場や塾産業に対して、どれほど自律的であるのかが問われている。
以前は、学校は雇用につながっていたが、それが崩れているなかで、学校教育はブラック化している。安倍政権とフリースクールは「個性」「多様性」「自由」という言葉で握手してしまっているが、その言葉で同じものを見ているのかといえば、けっしてそうではないだろう。そこをよくよく確認しておかないといけない。法案がどうなろうと、その構造をよく考えないといけない。

・原点に立ち返って
不登校の現実に立脚して考える場合、不登校その後の問題と、貧困による長期欠席の問題はきちんと考えないといけない。そのなかで、私たちが「居場所」と言ってきたことの意味を、原点に立ち返って考える必要がある。この能力主義社会がパッと変わることはなく、むしろ深まる一方のなかで、子どもたちは、この社会や自分と向き合ったり葛藤することが必要だと思う。居場所を保ちつつ、葛藤したり、揺れ動く時間や場があること。大人はそこに向き合っていくことが必要ではないか。

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