多様な教育機会確保法案:土台から考え直すべき

朝日(11/13)、読売(11/15)、毎日(11/16)各紙が報じたところによると、「多様な教育機会確保法案」は、自民党の慎重派の意見を汲んで、来年の通常国会に提出する見込みになったようだ。
あちこちに聞いてみたが、自民党の案を読むことができていないので、報道記事に拠るしかないのだが、概要は次のようなことだ。
不登校の子どもについて、保護者が市町村の教育委員会に対し、「一定期間、学校に在籍したまま学校に出席させないことができる」よう申請。教委が認めた場合、原則では籍を置いた小中学校での卒業をめざしつつ、フリースクールや、学校復帰のために教育委員会が設置する教育支援センター、家庭学習など学校外での教育も認める。(朝日新聞11/13)

名前も「義務教育の段階に相当する普通教育の機会の確保に関する法律案」と代わり、「多様な」は外れた。
合成の誤謬というか、誰も望まない法案になっているというほかないだろう。おかしな土台に建った建物を、土台からではなく上部で修正しようとして、修正するほどおかしくなってる感じがする。土台から考え直す必要があるだろう。
そもそもの土台はと、さかのぼって考えると、そのひとつは、2008年5月に亀田徹さん(現・文部科学省フリースクール担当官)がPHP総合研究所で出した論文『多様な選択肢を認める「教育義務制度」への転換-就学義務の見直しに関する具体的提案-』にあると言える。ここから、現法案まで、ずいぶん紆余曲折があるが、この土台そのものはどうだったのだろう?
この論文については、拙著『迷子の時代を生きぬくために』(2009北大路書房)で、論評している。いま読み返しても、そのまま妥当だと思うので、以下に引用しておく。そもそもから考え直したい方は、ご参考まで。(山下耕平)

●就学義務から教育義務?

亀田さんは、不登校が問題視されるのは、就学義務のみが親に課せられており、学校外の教育が制度的に認められていないからだとし、就学義務から、場所を問わずに子どもに一定水準の教育を受けさせる「教育義務」を課すことを提言した。


具体的には、保護者の申請を受け、教育委員会が学校外で学ぶことを許可する。そして、教育委員会の指導主事が学期に1回、保護者や子どもと面接し、子どもの学習や生活状況をチェックし、アドバイスをするという。そして、中学校卒業資格は、現にある「中学校卒業程度認定試験」を活用するというのだ。これにより、不登校は「問題」ではなく「選択肢」となり、家庭の精神的負担の軽減にもつながる、と主張している。


この論文はフリースクール関係者のあいだでは話題となり、亀田さんはいくつかのフリースクール主催のシンポジウムに招かれるなど、その主張は好感的に迎え入れられた感がある。しかし、私はこれも詭弁ではないかと考えている。


まず、教育義務というなら、それは親のみに課せられるものではなく、義務教育を整備する国や自治体にも課せられるべきものだ。学校外での学びを制度的に認めようと主張しながら、亀田さんが必要な財政措置として試算しているのは、教育委員会の面接費用47億円のみだ(650人の指導主事が学期に1回面接するとして)。つまり、子どもにかかる教育費用は全額保護者が負担することを前提としているのだ。


この点について、亀田さんは『Fonte』の取材に対し、「現実にある事態について実現可能性のある提言をした」、フリースクールにかかる費用を助成することなどは「現時点では難しい」との見方を示している(『Fonte』254号/2008年11月15日)。つまり、不登校を制度的に認めるといっても、それは保護者にすべてを任せ、行政はそれをチェックし、アドバイスするだけの費用しか出さないと言っているのだ。また、これまでは自主的な場として成り立ってきたフリースクールに対し、定期的なチェックをするということにもなる。これでは、費用が助成されるわけでもないのに、管理だけが強まることになってしまう。詭弁と言わざるを得ない。


子どもにとっても、いいことはないように思える。なぜなら、現状でも、学校に行かなくなったところで、進級・卒業できないことはまずない。しかし、亀田さんが言う不登校を制度的に認めるとは、学校から籍を抜き、試験を通過しないかぎりは中卒資格もとれなくなることを意味する。


不登校という現実は、子どもの「教育を受ける権利」を保障するという義務を、国家や自治体、保護者が果たせていないことを示している。亀田さんの主張は、国家や自治体がその義務から後退し、保護者への義務を増大させることを意味している。


また、『Fonte』の取材に対し、亀田さんは「フリースクールの定義を決めて線引きをし、私立学校のように法的に位置づけるのは意味がない」「規模・運営方針を含め、多様性がフリースクールの持つよさの一端でもあるわけで、そこに明確な線引きを加えることは現実的な解決策にはなり得ない」と話している(前掲紙)。これは、その通りだろう。しかし、不登校を制度的に認め、フリースクールなどにも私学助成のような財政措置をとることになれば、必然的に法的に位置づけを定め、線引きすることが必要となるだろう。そうなれば、一部のフリースクールが財政的にすくわれたとしても、大半のフリースクールはかえって存在基盤を損なわれてしまうことになるだろう。なぜなら、大半のフリースクールは、とても小規模に活動しており、教育機関として法的な位置づけを与えることなど、それこそ「現実的ではない」ように思えるからだ。現にあるフリースクールの大半は、もっと草の根的というか、教育制度にはそぐわないようなものだ。


ただ、亀田さんの主張には、肯ける部分もある。それは、学校に行かないことが子どもにとっても親にとっても罪悪感や自己否定感をともなうものとしてあり、それが必要以上に子どもを苦しめてきた、ということだ。罪悪感や自己否定感を持たされたまま、保健室登校や別室登校をさせられたり、いつまでも、あってはならない状態として不登校が位置づけられていることは、深く子どもや親を苦しめているにちがいない。それを解消するためには、現実的にできる方法として、選択肢として位置づけてしまえばいいという主張は、わからなくもない。しかし、それはそう簡単ではないだろうと私は思う。実態を抜きに理念としてだけ選択肢とすることは詭弁にほかならないし、実態をともなわせようとすると現実的ではなくなる。不登校が数十年にわたって問題であり続けたのは、それが巨大な社会構造の問題であるからだ。先述したように、不登校はそれだけにやっかいで、混沌とした問題であり続けてきたのだろう。この混沌を簡単に腑分けしてはいけない。むしろ、この混沌を磁場とし、巨大な社会構造を問い続けなければいけないのではないか。そんなふうに思う。
(『迷子の時代を生き抜くために』山下耕平/北大路書房2009)

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