ふぞろいのキュウリたちは高く売れたいだろうか?

わが家にはプランターほどの「庭」があって、毎年、そこで何かしら野菜を育てている。今年はキュウリを植えた。キュウリは、まっすぐ、ほどよく育つものもあれば、曲がってしまうものもあり、ちょっと気を許すと、でっかくなりすぎて大味になってしまう。よく言われることだが、スーパーに並んでいるキュウリは、きれいに形がそろっているが、ふぞろいのキュウリたちは、ずいぶんはじかれているにちがいない。

野菜というのは、人が手間をかけて、土を耕したり、肥料や水をやったりしないと、ちゃんと育たない。ただ、その手間のかけ方や育て方には、その人の考え方が反映される。効率よく商品化するために、農薬や化学肥料を使って大量生産する人もあれば、めんどうくさくても、無農薬で雑草と格闘し、収量が少なくても有機肥料で育てている人もいる。なかには不耕起栽培だとか自然農法だとか、極力、人の手間をかけないことがよいとする人もいる。

まあ、プランター程度の「庭」で家庭菜園をしているぐらいの私には、農業についてエラそうなことは何も言えないのだが、野菜と人間は似ているのだな、と思ったりするのだ。人間も、野生のままには育たない。手間をかけて育てる必要がある。その手間のかけ方には、その人の考え方が反映される。世の中の多くの親は、子どもを高い労働力商品として売るために、躍起になってきた。そのために学歴競争が激化し、偏差値という画一的な基準で人が振り分けられ、序列化されてきた。一方で、めんどうくさくても、子どもの主体性を大事にした、オルタナティブな学びを追求してきた人もいる。教育なんか極力しないほうがいいという、自然農法的な人もいるだろう。

30年ほど前、「ふぞろいの林檎たち」というドラマが流行ったころは、ふぞろいであるがゆえに市場からはじかれてしまうこと、たとえば学歴だけでその人の価値が見積もられてしまうことが問題になっていた。曲がったキュウリ、ふぞろいの林檎でいいじゃないか、それも個性だというようなことは、ずいぶん言われてきた。フリースクールやオルタナティブ教育運動などにも、そうした社会背景があると言えるだろう。

しかし、いまは、均質な商品を求める市場がある一方で、個性的な商品を求める時代になっている。均質でそろっている商品より、ふぞろいでも安全な有機農法の作物のほうが高く売れたりする。そこで、有機認定だとかオーガニック認定みたいなものが出てくる。しかし、それでは結局、市場で売れることに価値がある、という価値観は変わらず、売れるための方法論が変わるだけになってしまう。

フリースクールなどが、人を労働力商品として高く売るための認定の場になってしまうのであれば、それは無残というほかない。フリースクールなどが多様性と言ってきたのは、商品になるための多様性にすぎなかったのだろうか。

あるいは、貧困問題で子どもの学力保障が言われる場合にも同じことが言える。個人の能力を磨いて、貧困に陥らないように労働市場で売れるようにすることが、支援になるのだろうか。

売れることにのみ価値がある、売れないものには価値がないという価値観に対して、それに呑み込まれずに(あるいは呑み込まれつつも)、自分が大事にしたい関係や場をいかに保っていけるのか。その足場がどんどん崩れているなかで、どんなに小さくても、たとえプランターほどであっても、そこに立っていける足場を大事にしていきたい。そして、そういう足場に立っている、さまざまな分野の人たちと、ゆるやかにつながっていきたい。曲がったキュウリを見ながら、そんなことを思う夏の日曜日だった。


コメント