教育の「多様化」と商品化

教育の「多様化」について考えたいことはいろいろあるが、そのひとつに、「その後」のことがある。学校が多様化する、教育が多様化する。それ自体はいいことかもしれない。しかし、「その後」を考えたとき、結局は「いい大学」に入ることが目指されていたり、学歴価値は相対化できていなかったりすることも多い。学歴価値は何なのかと言えば、とどのつまりは就職との交換価値だったりする。そこで何が学べるのかという実質に価値が置かれていることは、残念ながら少ない。

学歴価値を相対化するように見える場合でも、「あなたの好きに生きたらいい」というほかなく、フリースクールなどで、具体的にオルタナティブな価値を大事にして生きていく基盤が用意できているわけではないだろう。それを責めたいわけではない。いかに「多様な学び場」であろうと、社会のなかに位置づいているのであって、「その後」の基盤がない以上、学校と同じく、経済的成功のための道具、教育商品として、消費者の選別にかけられることになってしまうと思うのだ。

そもそも学校制度自体が、人を共同体から引き抜いて、近代工業社会の労働力に仕立て上げていく装置だったと言える。一時期までは、引き抜いた代わりに安定した雇用へと接続できていたから、学校は人びとを引きつけてきたのだ。しかし、大学進学率については、ずっと上昇していたわけではない。高卒の就職が安定していた70年代半ば~90年代初頭までは横ばいで、男子についてはむしろ漸減している。大学進学が過熱化するのは、バブル崩壊後、高卒就職が困難になってきてからのことだ。当たり前のことだが、教育は常に社会情勢の影響のなかにある。

政府がフリースクール支援を言い出した背景には、大学を卒業しても安定した雇用を保障できなくなり、これまでの学校制度が機能しなくなってきていることがある。そこで「未来のアインシュタインやエジソン」「ダイヤモンドの原石」(下村博文)を発掘して、ごく一部のエリートには教育費を重点配分し、公教育予算を全体としては削減していこうという大きな流れがある。

「多様な学び」は、教育の商品化、能力の商品化、人の商品化の力学から自由にはなれない。むしろ、その力学を強化してしまう可能性も高い。いかに学び方や機会が多様となろうとも、商品化という点で一元化されているのでは、それは本当に「多様性」と言えるのか。学校に対してオルタナティブであったとしても、市場に対する自律性がなければ、「多様な学び場」は学校以上に商品的なものになりかねない。このあたりの問題意識についても、「多様な学び場」の関係者と共有し、深めたいと願っている。

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