居場所、灰色、ムダ、共同性……

社会自体の商品化が進み、お金を稼がないと生きていけなくなっているなかで、個々人が自分の商品価値を高めようと努力すればするほど、「おたがいさま」の領域や、社会の公共性は失われてきている。社会が多様であるためには、人が商品としてではなく関係を結べる領域を、取り戻していくことが必要にちがいない。

「居場所」と言われてきたさまざまな営みは、不登校やひきこもりをはじめ、この商品社会でやっていけないと感じた人たちが、おのずと培ってきた土壌だ。それぞれは小さくとも、それは、人が生きていく足場となりうる。私はそう感じてきた。だから、そこに商品化の視線が及ぶことに、抵抗を感じるのだ。

商品社会は、商品にならないものを毛嫌いする。すべてのものを商品価値に一元化しようとする。ミヒャエル・エンデの『モモ』でいう、“灰色”の世界だ。数値目標、成果主義、自己評価……そういったものが、気づかぬうちに、あらゆる領域に入り込んでいる。NPOだとか、フリースクールなども例外ではない。この人までそんなこと言うか、というようなことも増えてきた。私たちが大事にしたいと思ってきたことは、「ムダ」なことだったり、「そうは言っても……」という言葉のなかで、どんどん切りつめられている。

しかも、“灰色”の論理は、「個性」「多様性」「選択」「自由」といった言葉をまとって、一見よさそうに見える装いをしているから、やっかいだ。でも、ダマされてはいけない。“灰色”と闘うには、“灰色”がムダだというものこそを大事にして、そこから共同性を培っていくことが必要だ。それは、“灰色”からしたら「負け組」とされる人びとのあいだにあるのだ、きっと。

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