「行けない」と「行かない」

不登校は、「学校に行かない・行けない」と表されることがある。自分の意志で「行かない」のか、それとも「行けない」のか、どちらとも言いがたく、並記するような表し方をしたりする。

この「行かない」と「行けない」では、世間のまなざしはだいぶちがうように思う。いじめや体罰などがあって不登校になった場合、「死にたいくらいつらいのだったら、学校から逃げてもいい」ということが、近年はよく言われるようになった。

しかし、「なんとなく行きたくない」とか「自分でもよくわからないんだけど行けない」ということだと、なかなか認めらず、結局は「死にたいくらい」つらくなるまでがんばらないと認められないというのが現状かもしれない。

あるいは、学校に価値を見いだせず、みずから行かないということだったりすると、世間から強い反発を買ってしまう。「行けない」は認められても、「行かない」は認めがたい。そこには、とても根の深い、不登校への否定のまなざしがあるのではないだろうか。
たとえば、シングルマザーに対する世間のまなざしも、未婚・非婚、離別、死別では大きく異なる。死別だったら「たいへんね」と同情されるが、離別だったら「あなたにも問題があったのでは?」「もう少しガマンできたのでは?」となるし、未婚・非婚だったら、「好き勝手にひとりで子どもを生んだのだから」と、自己責任を問われることになる。たぶん、そこにあるのは「自分たちはこんなにガマンしているのに、好き勝手しているヤツは許せない」という心情だろう。

不登校の場合も、やむなく「行けない」のであれば同情されるが、「行かない」のは好き勝手にやっているのだからと、自己責任を問われてしまう。その場合、認められるためには、ただ「行かない」のではなく、積極的に学校外でもこんなに学んでいる、という成果を示さないといけなくなってしまう。

フリースクールなどの関係者が、「不登校」を「学校外の学び」に置き換え、選択肢にしようとしているのには、そのあたりの問題が背景にあるように思う。しかし、「不登校」と「学校外の学び」は同じものではない。

不登校が、同情から認められるのはイヤだという気持ちはわかる。しかし、学校外で学んでいるのだからと、学校外の成果で認めさせようというのも苦しいことだと私は思う。それでは、不登校を否定視するまなざしはそのままに、かたちを変えてがんばるほかなくなる。

不登校にかぎらないが、そもそも多くの人ががんばりすぎているから、「自分はこんなにがんばっているのに、がんばってないヤツは許せない」という心情になってしまうのではないか。であれば、もっと休むこと、サボること、怠けることの必要性を認めさせないといけない。

学校を休むこと、行かないことは、同情からでも、学校外の学びの成果からでもなく、当然の権利として、すべての子どもに認められるものにしないといけないと私は思う。

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