議論錯綜の元凶は

法案をめぐる議論は錯綜に錯綜を重ね、ねじれにねじれた観がある。そのねじれの源がどこにあるかと言えば、〈不登校〉と〈多様な教育〉のちがいだろう。この二つをいっしょにしたところで、混乱を招いてきた。おまけに夜間中を絡めたものだから、訳がわからなくなってしまった。今後の議論のために、これまでに書いてきたことと重複するが、あらためて書いておきたい。

まずは、〈不登校〉と〈多様な教育〉を腑分けしたい。現象としては重なっていても、この二つは異なるものだ。

●不登校とは何か

不登校とは文字通り、登校しないことだ。年間30日以上の長期欠席のうち、経済的理由や病気などではないものを指す。つまり、学校を休んでいることだ。不登校を認めるというのは、学校を休むことを認めることにほかならない。いまの学校が問題なのは、あまりに休むことを認めてないことだろう。学校に来ないかわりに、別のかたちで教育を受けていなければ休むことを認めないというのであれば、それは不登校を認めることにはならない。

●多様な教育とは何か


フリースクールやオルタナティブスクールというのは、もともとは欧米の教育思想をモデルにした教育の場のことだ。不登校とは文脈が異なる。だから、フリースクールやオルタナティブスクールを不登校するということも当然ある。どんなに多様な教育であろうと、それを子どもが拒否するということはある。多様な教育を認めるということは、不登校を認めることとはまったくちがう。

多様な教育を制度として認めようというのであれば、不登校を立法事実にする必要はまったくない。不登校を法律で定義づけ、その定義に即した人にのみ認められる教育の場というのでは、排除の上に分類していることになる。

●学校の外とは何か

法案をめぐって、「学校の外を一歩でも認めさせたい」という主張が散見された。しかし、この「学校の外」とは何をもって外というのか。塾だってマッチョな矯正施設だって、「学校の外」である。既存の一条校以外であれば多様な教育だというのであれば、何でもありということになる。フリースクールなどは、学校に対する自律性があったとしても、市場に対する自律性がなければ、何でもありに呑み込まれた上に、市場に淘汰されてしまう。この10年ほどのあいだに、サポート校などを受託してきたフリースクールが多いことをみても、このあたりがとてもあやふやになっていると言える。

一方で、不登校も「学校の外」である。それは「教育の外」と言ってもいい。教育のまなざしではない、「教育の外」の場、関係がなければ、子どもはやってられないのではないか。不登校を認めると言いながら、「学校の外」を教育の場で埋め尽くしてしまったら、子どもを追いつめてしまうことになる。

法案は錯綜したあげく、不登校政策法案になった。しかし、法案の目的は教育機会の確保であるから、〈多様な〉がなくなった上に、根本のねじれを抱えたままだ。このあたりが、法案をめぐって議論が錯綜している元凶だろう。

※〈インクルーシブ教育〉と〈多様な教育〉のねじれについても書きたいことがあるのだが、また、あらためて。

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