不登校の観光地化?

ここ数年は観光客の増加で、大阪でもあちこち風景が変わった。たとえば大阪城公園とか黒門市場とか新世界とか、観光地になっているところに行くと、たくさんの外国人が訪れている。それはよいのだが、観光客に合わせて、街の風景も変わった。まるでブレードランナーに出てくる架空の日本人街のように、デフォルメされ、ジャポニスム感が強調されている。お店には、侍アンブレラ、着物姿のキティちゃん、金ピカのビリケンさん、忍者グッズなどの数々があふれかえっている。

観光客の期待に応えようと、デフォルメされ、商品化され、過剰に演出された風景。日常がラッピングされてしまっているかのような、きらびやかさと裏腹の息苦しさ。

自分の生活圏のところでは、その矛盾がよく見える。しかし、自分たちがどこかの観光地に行けば、ラッピングされた風景を見て、写真を撮り、地元の人は食べたこともないようなお菓子を買ったり、これみよがしのおみやげを買って帰ったりしている。

それが悪い、ということではないかもしれない。しかし、何かがおかしい。どこもかしこも、観光客を誘致しようと、自分たちをデフォルメし、ラッピングする。観光客の期待に応え、求められる姿を演出する。そこで抑圧されてしまうのは、もともとの地元の生活だったり、日常性だったり、そこにある複雑性だろう。

過剰にデフォルメされた風景を見ながら、ふと思った。これは、不登校がメディアでとりあげられるときの違和感と似ているのではないか。

メディアでは、多数の人にわかりやすいように、事実が単純化され、あるいは演出され、あるいは一部の事実がデフォルメされて伝えられる。ラッピングされて、パッケージ化された語りが、商品のように流通する。まるで、地元の人が食べないお菓子のように。きらびやかさと裏腹の息苦しさに、当事者から「なんか、ちがう」という小さな声があがっても、そうした声はなかったかのように、不登校のイメージが流通していく。

それが「よい」イメージであれ、「悪い」イメージであれ、メディアに流通するのはラッピングされたイメージだ。そして、不登校やひきこもりと犯罪を短絡的に結びつけた報道であるとか、「悪い」イメージに抗議の声があがることはあっても、「よい」イメージには声もあげにくい。

メディアで不登校のことが大きくとりあげられるときというのは、さながら観光客がどっと押し寄せているときのようなものだろう。そこで上手に商売をする人もいるとは思うが、静かな生活は奪われてしまっているかもしれない。そういうことに鈍感になってはいけないと、自戒を込めつつ思うこのごろだ。


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