重さ、におい、ゴツゴツ……

小学校高学年のころ、祖母が編んでくれたセーターを着て学校に行ったところ、「変なの!」とからかわれて、学校には着て行けなくなってしまったことがあった。手編みの、少しぼこぼこしたセーターで、オレンジと深緑の縞模様だった。担任の先生だけが「いいセーターね」と言ってくれたのは覚えていて、何度かは着て行ったかもしれない。でも、なぜだかとても恥ずかしかった。そして、恥ずかしく思う自分も恥ずかしかった。

あるいは、小学生のころは、父親が散髪してくれていたのだが、虎刈りとは言わないまでも、やはり散髪屋さんでやってもらうのとはちがって、どこか雑な刈り方だった。子どもはそういうところに敏感で、やはり「変なの!」と、よくからかわれた。そして同じように恥ずかしい思いを抱えつつ、親には「散髪屋さんで散髪したい」とは、なかなか言い出せなかった。

お店で買う服や、散髪屋さんでの散髪は、均質に整っていて、そういうものがあたりまえになっている目からすると、素人の手作業は奇異なものに映ったのかもしれない。あるいは、いまふうに言うならば、手作業のものは「重い」感じがして、軽い商品のほうがよいというか、そういう感じがあったかもしれない。私自身、そう感じていたところがあったからこそ、恥ずかしくもあったのだろう。

私が子どものころ(80年代)、すでに生活は、どんどん商品を買うことに置き換わってはいたけれども、まだ、そういうゴツゴツとした素人の手作業のようなものが、いろいろ残っていたように思う。高度経済成長前の、どこか土着的な「におい」のする生活がかろうじて残っていて、どんどん軽く薄くなる商品世界のなかで、その「におい」は忌避されていったような気がする。

いまだったら、たとえば個人経営の喫茶店よりは、スターバックスなんかに行くし、自営業の商店よりもコンビニやイオンモールに行く。その気分はよくわかる一方で、そういうものを忌避するのは、やはり恥ずかしいことだとも思う。

●得体の知れないエネルギーが

子どもの居場所ということを考えても、同じようなことは言えそうだ。たとえば塾でも、かつては、進学塾ではない個人経営の補習塾で、世間からあぶれた妖怪みたいなおじさんがやっている塾なんかが、けっこうあった。そういう塾をやっていた人が、フリースペースだとかフリースクールを始めたりして、ひと昔前のフリースクール界隈は、いまよりもずっとゴツゴツとして、「におい」もあったように思う。

それが、だんだんきれいな教育商品に置き換わっていった。ホームページやパンフレットは小ぎれいで、キャッチーな言葉が並んで耳障りはよいけれども、脱臭されてしまっていて、訴えるものもあまりない。そういうところが増えた。そうしたなか、フリースクール界隈にかつてあった得体の知れないエネルギーみたいなものは、失われていったように感じる。

あるいは、市民活動には、全般にそういう「におい」があった。市民活動も軽いNPOのようなところが増えた。それと同時に、社会を根本から問い直すよりも、短期的な課題の解決を訴え、わかりやすくアピールするところが増えたように思う。

●忌避する感覚はわかりつつも

いまや、こういうことを言うこと自体が、「重い」と言われ、忌避されるような気もする。しかし、その「重さ」を忌避してきたからこそ、自分自身の「重さ」も、どこにも出せず、自分の内に閉じ込めてしまってきたのではないか。その結果、どこにも、誰にも受けとめられない「重さ」は、耐えかねて暴発してしまうのではないか。その暴発は、外に向かうこともあれば、自分自身に向かうこともある。そんな気がしてならない。

「重さ」を忌避する感覚はわかりつつも、その「重さ」を出せる場をつくっていくこと。たんに「かつてはよかった」と懐古するのではなく、いまの人たちと、そういう場をつくっていくこと。そういうことが求められているように思う。そのためには、かつてとはちがう工夫が必要だ。しかし、そういう試行錯誤は理解されにくいし、お金にもなりにくい。それでも私は、その「重さ」、「におい」、ゴツゴツとしたものを手放したくないと思う。めんどうだなとは思いつつも……。

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