学校への疎外、学校からの疎外

教育機会確保法をはじめとして、最近の不登校やフリースクールをめぐる情勢に、なんでこんなに違和感を覚えるのかを考えたとき、そこには、「疎外」の問題があるように思う。

「疎外」だなんて、いかにもいかめしい言葉だと思うが、ちょっとばかり、おつきあいいただきたい。

社会学者の見田宗介は、「二重の疎外」ということを言っていた。いわく、「貨幣への疎外」があって、「貨幣からの疎外」が問題となる。どういうことか。

「貨幣への疎外」というのは、お金でしか生活ができなくなることだ。いまや、私たちは衣・食・住すべてを、お金でまかなっている。ガンジーみたいに糸車をまわして糸を繰って衣服を織る人なんて、ほとんどいない。おおかたの人は、日々、着るものも食べるものも住む場所も、お金で買っている。水道光熱費もしかり。井戸から水をくみ上げたり、裏山から薪を切り出してくる人はほとんどいない。生活というものが、すべて消費になっている。そうすると、そのためのお金を稼ぐことが必要になり、働くこと=お金を稼ぐことになる。つまりは、自分も労働力を売って生活するほかなくなる。これが「貨幣への疎外」ということだろう。

そして、お金でしか生活できない世界では、「貨幣からの疎外」=お金がないことが問題になる。お金がないことが、そのまま生活できないことにつながってしまう。「貨幣への疎外」があって、「貨幣からの疎外」が問題となる。それが「二重の疎外」ということだろう。

これを学校にあてはめても、同じことが言える。つまり、「学校への疎外」があって、「学校からの疎外」が問題となる。学校へ行かないと就職が困難になってしまう世界(=「学校への疎外」)では、不登校(=「学校からの疎外」)が問題となる。不登校が問題とされてきたのは、個々人の問題以前に、そもそも人びとが学校へと疎外されてしまっているからだと言える。

不登校から問われてきたのは、「学校からの疎外」の問題だけではなく、そもそもの「学校への疎外」の問題でもあったのではないだろうか。しかし、多くの場合、そもそもの「学校への疎外」は意識すらされていない。お金を稼がないと生きていけなくなっていること(貨幣への疎外)が、おかしいとは思えなくなっているのと同じように。
それでも、たとえばイヴァン・イリイチが「脱学校」とか言っていたのは、「学校への疎外」を問題にしていたように思う。かつての不登校運動も、「学校への疎外」そのものを問うていたところはあったように思う。

しかし、いまや「学校への疎外」は自明のこととされ、その「学校」を多様化することだけが求められている。もう少し正確に言うなら、「教育への疎外」と言ったほうがいいかもしれない。いかに教育が多様化されようとも、「教育への疎外」の苦しさの根は変わらない。

そして、その苦しさの根が置き去りにされているがために、その置き去りにされたものからは、より大きなかたちでしっぺ返しを受けているように思えてならない……。

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