マーケティングが奪ってしまうもの。

フリースクールなどを運営していて、これが成り立ってきたのは奇跡的だと思うことがある。なぜなら、学校に行かせたい、勉強させたいと思っている親の価値観と逆立しながら、そういう価値観と異なる場所を開いて、そこにお金を出してもらってきたからだ。公的な場で、子どもが無料で利用できるというのであればよいのだが、そうはいかないなかで、親の価値観と逆立しながら、その親からお金をもらって運営してきたのだ。ただ、逆立というのは対立ではなくて、異なる価値観がぶつかるところで、ていねいにコミュニケーションしながら、そこで生み出される信頼関係があって、だからこそ成り立ってきたのだと言える。

●「いい親」ほど鈍感?

多様な教育機会確保法案が出てきたとき、懸念したことのひとつは、親子でニーズが対立的である場合もあるのに、保護者に主権を持たせてしまっていることだった。たとえば、子どもはとにかく休みたいと思っているのに、保護者が別のかたち(個別学習計画)で学ばせようとして、そこにお金も出るとなれば、子どもは追いつめられてしまう。
いいことをしていると思っている親ほど、子どもと自分のニーズのちがいに鈍感なことも多いように思う。それが学歴主義であろうが、オルタナティブ教育であろうが、変わりない。多くの場合、親は子どもを自分の思うように育てたいと思ってしまっている。それが子どもの不登校などによって手ひどく裏切られて初めて、親は自分の価値観を問い直してきたのではないだろうか。

●マーケティングがきらいなのは

私がマーケティング的な発想がきらいなのも、そのあたりにある。「お客さま」のニーズに応えようというとき、そこには価値観の逆立もなければ、異なる価値観どうしのコミュニケーションもない。子どものニーズが親と異なる場合でも、お金を出すのは親だから、親のニーズに応えることしかできない。

あるとき、「ラーメン屋に来た客に寿司を出してどうするの」と言われたことがある。消費者の求めているものと異なるものを提供してちゃ商売にならない、ちゃんと消費者のニーズをリサーチして、それに応えないといけない、ということだ。商売としてはもっともだろう。もちろん、フリースクールなども運営していかないといけないので、商売の側面もある。親のニーズを無視してはいけないし、矛盾や葛藤はたくさんある。でも、だからこそ、その矛盾や葛藤を手放してはならないのだと思う。

社会がマーケットになればなるほど、サービスは多様化するが、多様な価値観がせめぎあう場はなくなっていく。多様な教育機会確保法案で問題になったのは、その論議でもあったように思う。よそのことだったら問題は見えやすいし、大きな社会状況として、問題を指摘することはたやすい。問題は、自分たちの足場で、いかに葛藤し、もがくかではないだろうか。

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