書評:『「コミュ障」の社会学』

『「コミュ障」の社会学』(貴戸理恵/青土社)という本を献本していただいたので、書評を書こうかと思ったのが、どうにも難しい。この本は、貴戸さんがこの10年ほどのあいだに、あちこちの媒体に書いてきた論考を集めたものなのだが、そのベースとなっているものは、この10年ほどのあいだに、づら研などの場を介して、私たちと共有してきたものでもある。なので、突き放して評することができない。むしろ、読んでいて、私自身がこの10年ほどを振り返ることにもなった。

いまの社会では、いろんなことが流動化してしまって、個人が個人としての輪郭を保ちにくく、自分のニーズさえもわからないほどに「生きづらく」なっている。にもかかわらず、一方では自己責任が迫られ、そこで生じるリスクは個人化されてしまっている。かつてのように、社会問題として人びとが連帯することも難しくなっている。そうしたなかで、いかにして共同性を立ち上げ直していくことができるか。貴戸さんは、その試行錯誤を、場をともにしながら、なおかつ研究者として書こうとしている。これはたいへん難しい作業だ。さまざまに書かれた論考の随所には、それゆえの葛藤も見てとれる。

そして、こんなことを言っては身もフタもないのだが、この本では、研究者として書かれたものよりも、エッセイとして書かれた言葉のほうがイキイキと伝わってくるものがあった。石牟礼道子さんがシャーマンのごとく言葉を産出していたように、たぶん、この領域はアカデミックな(そして近代的な?)言葉とは相性がよくないのだ。

でも、貴戸さんは、その座りの悪さを重々承知しながらも、生きづらさとしか語り得ない現象について、あるいは居場所や当事者研究のような場の意義について、アカデミックな言葉で切り取り、それを社会的に意義あるものとして通じるものにしていこうとしている。そして、それを具体的に制度を変えるような道筋につなげていこうともしている。そういう意思が、貴戸さんにはあるのだと思う。そのへんは、ともするとアナーキーになりがちな私とはベクトルが異なるのだが、そのベクトルの交差するところで、貴戸さんとは、ずっと対話してきているような気がする。

そして、そういうズレがあることこそが大事なのだと私は思っている。場をともにしていると、ややもすると「いっしょ」であることが重要になってしまって、異なる意見は排除され、そこにある語りはテンプレ化されていってしまう。テンプレ化された言葉は、一見わかりやすいようで、結局は都合よく消費されてしまう。また、わかりやすさの反面で、そういう言葉が抑圧してしまうものはかならずあるし、さらには、内ゲバ的なグロテスクな排除を生み出すことにもなる。

「当事者」の語りにしても、「支援者」の語りにしても、テンプレ化された語りはウンザリだ。「当事者」にも「支援者」にも「研究者」にも回収されない、テンプレ化にあらがう言葉が必要だ。それは同時に、それぞれを問い返す言葉でもある。そして、そういう言葉が生成されるのは、そういう人たちが出会い、交錯する場だ。ささやかながら、づら研の場は、そういう場となっているのではないかと思う(常に矛盾や葛藤をはらみつつ)。
テンプレ化された不登校やひきこもりの言説にはウンザリという方には、ぜひ、この本を読んでいただきたい。

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