不登校と選択をめぐる問題――『名前のない生きづらさ』より

不登校と選択をめぐる問題について、『名前のない生きづらさ』第2章に書いたものを抜粋しておきたい。


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・不登校の当事者運動のなかでは、学校に行かないことを、フリースクールやホームエデュケーションに置き換えることで、学校に対置しうる教育(=選択できるもの)として位置づけようとしてきたと言える。ここに、問題がねじれてしまう、最大の要因があるように思う。

・不登校という名前は、それ以前に比べれば淡白になったとは言え、やはり、そこには学校に行かないことを異常視するような、名づける側のまなざしがある。しかし、それを周囲がフリースクールやホームエデュケーションなどの名前に置き換えて、世間に理解しやすいストーリーに組み替えてしまうことも、本人不在になってしまうと言えるだろう。

・子どもが学校に対してノーを示していることに対し、それを親や周囲が選択の問題としてしまう。そこにねじれがある。子どもにとって、不登校は選択の問題ではない。不登校を選択の問題としてしまうと、現実からズレてしまう。

・私自身の経験で言えば、学校に行かなくなった子ども(親ではなく)がまず求めるのは「居場所」だろうと感じてきた。それは逃げ場とも言えるし避難所とも言える。それを家に求める場合もあれば、家の外に求める場合もあるが、いずれにしても「選択」というのとは、ちょっとちがう。逃げ場や避難所としてのフリースクールが、教育の選択肢となってしまったら、それは子どもの逃げ場を失うことにもなる。

・「居場所」と言われてきたさまざまな営みは、不登校やひきこもりをはじめ、この商品社会でやっていけないと感じた人たちが、おのずと培ってきた土壌だ。それぞれは小さくとも、それは、人が生きていく足場となりうる。私はそう感じてきた。だから、そこに商品化の視線が及ぶことに、抵抗を感じるのだ。

・商品化社会は、商品にならないものを毛嫌いする。すべてのものを商品価値に一元化しようとする。ミヒャエル・エンデの『モモ』でいう、“灰色”の世界だ。数値目標、成果主義、自己評価……そういったものが、気づかぬうちに、あらゆる領域に入り込んでいる。NPOだとか、フリースクールなども例外ではない。この人までそんなこと言うか、というようなことも増えてきた。私たちが大事にしたいと思ってきたことは、「ムダ」なことだったり、「そうは言っても……」という言葉のなかで、どんどん切りつめられている。

・しかも、“灰色”の論理は、「個性」「多様性」「選択」「自由」といった言葉をまとって、一見よさそうに見える装いをしているから、やっかいだ。でも、ダマされてはいけない。“灰色”と闘うには“灰色”がムダだというものこそを大事にして、そこから共同性を培っていくことが必要で、それは“灰色”からしたら「負け組」とされる人びとのあいだにあるのだ、きっと。

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