ボーッと生きていたいのに、イタタタタ。

チコちゃんには叱られそうだが、ボーッと生きていたい。

というか、どんなにボーッとしていても、身体は生きてくれているというのは、すごいことだと思う。心臓や胃腸などはもちろんのこと(不随意筋)、手足だって、自分の意志で動かしているようで、意外とボーッとしていても動いてくれているものである。歩いているときに、いちいち考えながら足を出していないし、着替えるときに、いちいち動作を考えたりしていない。

ところが、四十肩になって、ふだんの動作に支障が出ると、とたんに考えなくてはならなくなる。思うように動かないということもあるが、いつものようにボーッと動かしていると、激痛に見舞われてしまったりするのだ。

痛いから気をつけようと思っていても、不意に激痛に見舞われるパターンがふたつあることに気づいた。ひとつは寝返りで、これはどうしようもない。夜中に激痛で目覚めることしばしばだ。もうひとつは、物が落ちそうになったときなど、反射的にパッと手を出してしまうとき。これも意識的に止めることは難しい。

痛いことが一番困っているのだが、もうひとつ、困っていることに気づいた。ふだんは意識せずに済んでいる動作を、いちいち考えなくてはならないことが、めんどうくさい。着替えるときは、右から先に袖を通していたのを、左から通す。リュックを背負うときもしかり。身体を洗うとき、ちょっと背中を掻きたいとき、調理をするときなどなど、いちいち意識して動かすことになってしまった。

慣れてくれば、また考えなくてもできるようになるのだろうけれども、ボーッとしていてもできていたことが、いちいち考えて動かさなくてはならないというのは、地味にストレス度が高い。

そういう意味でも、人間が意識してできることなんて、かぎられた範囲のことだと思う。私たちは、ふだんは意識してなくても動いてくれている、さまざまのことに乗っかって生活しているのだ。ボーッとできることのありがたさを思う。
夜になって、またチクチクさんがいらっしゃっているが、今夜は少しでも安眠できますように。

写真は昨年(2018年)秋に、奈良県明日香村のかかしロードにて撮影。

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