〈インクルーシブ教育〉と〈教育の多様性〉

教育機会確保法案はインクルーシブ教育に逆行する、特別支援教育を拡大するものだという批判がある。その一方で、学校で苦しい思いをしてきた当事者からは、学校に「包摂」されることへの違和感が表明されている。このあたりも、きちんと考えないといけないことだろう。

●子どもの多様性/教育の多様性


インクルーシブ教育からの法案批判の意見には、たとえば、こういうものがある。

同じ教室の中で、多様性を認めあい、共に育っていくのが、障害者権利条約のいうインクルーシブ教育だ。教室から排除しておいて、多様な場をつくり、多様な機会を認めるというのは、文科省のいう「インクルーシブ教育システム=特別支援教育の充実」と同じで、インクルーシブ教育ではない。(名谷和子「障害児を普通学校へ・全国連絡会」会報337号/2015年8月7日

ここで整理しないといけないと思うのは、〈子どもの多様性〉と〈教育の多様性〉を、〈多様性〉という言葉でいっしょにしてしまうと、混乱してしまうということだ。法案の問題は、不登校を定義して分類していることにある。その上ではじめて特例として認められる教育ということであれば、障害児を排除してきた学校教育の延長にあると言えるだろう。つまり〈子どもの多様性〉が分断されてしまうことが問題だと言える。

●教育の多様性とインクルーシブ教育


では、いったん法案を脇において、〈教育の多様性〉とインクルーシブ教育は矛盾するのだろうか。インクルーシブ教育は「同じ教室」でなければならないのか?
たとえば障害者権利条約では、「一般的な教育制度から排除されないこと」「障害に基づいて無償のかつ義務的な初等教育から又は中等教育から排除されないこと」とある。(第24条2(a))

現行制度であれば、少なくとも一条校でなければならないと言える。名谷さんが「同じ教室」と言うのは、養護学校義務化や特別支援教育により、学校制度のなかでも障害者が分類・排除されてきた歴史をふまえたものだろう。しかし、「同じ教室」の息苦しさは、いじめや不登校によって問われてきた問題でもある。

「一般的な教育制度」に多様性をもたらすことはできるのではないか。そのためには、けっして、分類を前提とした制度であってはならないだろう。「多様」とか「特別のニーズ」という名のもとに、分類すればするほど、学校は多様性を失い、能力主義を加速させ、息苦しい場となってしまう。その意味で、教育機会確保法案は土台がまちがっていると言える。

ほんとうに〈教育の多様性〉を求めていくのであれば、誰にも開かれた制度でなければならないだろう(そのためには合理的配慮も必要だ)。だから、〈教育の多様性〉を求めるのであれば、この法案は白紙撤回するほかないのだ。

※インクルージョンと不登校についても、もう少し考えたいことがあるのだが、また、あらためて。

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