休み、怠け、サボり、ぐーたら……その3

労働時間の規制は法律で定められている。しかし、その規制がサービス残業を増大させるだけでは、意味がないどころか逆効果になってしまう。あるいは裁量労働制の拡大というのは、サービス残業の合法化ということなのだろう。
学校に関しても、ゆとり教育で授業時間を削減したら、塾に通う子はますます塾に通うようになって、教育の格差が拡大したという見方がある(苅谷剛彦『学力と階層』など)。さもありなんとは思うが、授業時間を減らしても「ゆとり」にならなかったのは、学校や子どもたちの置かれている状況を問うことなく、授業時間だけを減らしたからだろう。しかし、そこで格差だけを問題にするのもどうかと思う。学校こそが人を能力によって振り分けてきたのだし、能力主義社会を問うことなく、そこにおける格差だけを問うのでは、同じ穴のムジナだ。

●欠席≠休む
ところで、「欠席」と「休む」は同じではない。英語のabsent(欠席)には、rest(休む)という含意はないそうだ。学校を欠席しても、かえって勤勉に駆り立てられるのでは、子どもはちっとも休めない。
内田良子さんが語っているように(不登校50年証言プロジェクト#31)、すべての子どもに休む権利は明示されてしかるべきだろう。しかし、勤勉さに駆り立てられる状況をそのままにして、上から欠席を認めるというだけでは、ゆとり教育がそうだったように、塾通いを増やす結果になってしまったりするにちがいない。
では、どうやったら勤勉さに駆り立てられずに済むかと言えば、勝手に怠けたりサボってしまうほかない。上から許可されないと休めないというのは、そもそもおかしいのだ。それは、法律や制度の問題ではないのだろう。

●ひげづらの万年一等兵
鶴見俊輔が、何かの著書で、「ひげ面の兵隊は信じられる」というようなことを書いていた。戦争目的を疑うことなく信じている若いエリートが一番危なくて、年輩でひげ面の、厭戦的でやる気のない万年一等兵とかが、いちばん信じられる。徴兵自体は避けられず、いやおうなく戦争に巻き込まれたなかで、半身で身を処して生き抜いている。そういう人は、やみくもに人を殴ったりしない。たしか、そんな話だった。
いまの能力主義社会は、一朝一夕には変わらない。そこにいやおうなく巻き込まれながらも、どこかで折り合いをつけて生きていく必要はある。でも、だからこそ、まじめに信じてがんばるのではなく、巻き込まれつつも、怠けたりサボったりすることが肝要なのだろう。しかし、ひとりだけでは、なかなかそれも難しい。そこで必要とされるのが、逃げ場だったり、仲間だったりするのだと思う。フリースクールや居場所というのは、そういうものだと私は思ってきた。
ただ、大人が子どもに向かって「怠けよう、サボろう」とか言うのも、妙なことだ。もし、大人が子どもに示せるものがあるとすれば、みずから怠けたりサボったりする姿だろう。こんなぐーたらな大人でも、なんとか生きている。そのだらしない姿は、子どもが安心して休めることの一助くらいにはなるかもしれない(?)。
illustACで、「ぐうたら」で検索したら出てきたイラスト

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