誰もが安心して不登校できる学校を

多様な教育機会確保法案をめぐっては、さまざまな懸念や批判があるが、推進する人たちからは、「学校外の道が一歩でも認められれば」「学校外の道が最初から選択できる制度であれば、子どもたちは追い詰められることも少なくなる」という声が多く聴かれた(たとえば、2015年10月20日、多様な教育機会確保法「ここまできた!」報告会資料など参照)。
この、「学校外の道が認められる」とは、どういうことを言うのだろうか? そもそも「学校外」とは何を指すのだろうか? 多様性というとき、それは塾でも何でもありということなのか、選択の自由は、教育商品を選択できる消費者としての自由ということなのか。そのあたりがあいまいなままでは、結局は義務教育の民営化=市場化が進むばかりで、フリースクールなどはかえって苦境に陥ってしまうと危惧している。
また、「学校外」が「学び場」として認められることを求めるのであれば、それは不登校が認められるということとはズレてしまう。不登校は「休む」「逃げる」「撤退」という面を強く持つ。現状では、それは「学校外の学び」より優先すべきものだろう。「学校外の学び」を求めるとしても、それはきちんと休んだり逃げることが確保されてからの話だ。今回の法案で何より懸念されてきたのは、個別学習計画が子どもから逃げたり休むことを奪い、追い詰めてしまうことだろう。
しかし一方で、「誰もが安心して行ける学校を」という言い方(たとえば、「多様な教育機会確保法案」反対要望への賛同人の声など参照)にも、ひっかかるものがある。それは、そこに不登校を本来あってはならない状態と見なすまなざしを感じるからかもしれない(言っている人にそういう意図がないとしても)。
不登校が学校のあり方を問うているのは、まちがいない。そのとき、選択の自由を促進すれば学校のあり方が変わることにつながると考えるのか、いまの学校を「誰もが安心していける場」にしていくべきと考えるのか。ここで議論がねじれてしまっている。
私は、「誰もが安心して不登校できる学校を」と言いたい。それは、学校のあり方だけではなく、不登校しても不利益にならない社会のあり方を問うものでもあるだろう。
法案は1月半ばから国会での検討が再開される。しかし法案がどう転ぼうと、法案以前の問題として、このあたりをきちんと議論したいと願っている。

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