合理、弱法師、矛盾……

ここのところ、「合理」ということについて、あらためて考えることが多い。総会だとか決算だとか予算だとか、そういうことが続いているからだろう。

NPOといっても、事業なので、お金のやりくりは大変で、いつもいつも経営には頭を悩ませている。もっと合理的な経営の仕方というのは、考えないといけない面もあるのだと思う。でも、そもそもは、そういう「合理」からこぼれてしまう問題があるからこそ、NPOみたいな活動が必要とされている。その矛盾は手放してはいけないものだし、どちらかに片付く問題ではないのだろう。そして、どれだけ、「合理」からこぼれる側に立つことができるかが、問われるところなのだろうとも思う。

映画『風立ちぬ』で、空を飛ぶというのは「美しくも呪われた夢だ」という台詞があったが、人は二本足で立ったところに始まり、重力に抵抗し、その文明の力をもって世界を切りひらいてきた。しかし、その力はまた、巨大な人災をもたらす呪われた力でもある。

一方、『風立ちぬ』では、関東大震災のシーンも出てくるが、大地の力は、生命を育むと同時に、生を呑み込む死の力でもある。

「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」という聖書(ヨハネ伝)の言葉も思い起こされる。

ギリシャ神話のオイディプス王(オイディプスは腫れた足を意味する)は、スフィンクスに謎かけをされる。

「一つの声をもちながら、朝には四つ足、昼には二本足、夜には三つ足で歩くものは何か。その生き物は全ての生き物の中で最も姿を変える」

謎かけの答えは人間のことだ。はいはいから、二足歩行へ、老年になると杖をついて歩く。大地の力に拮抗して二本足で立ち上がり、やがて大地へと帰って行く。

俊徳丸説話をベースにした能の弱法師(よろぼし)では、俊徳丸は家を追い出され、盲目となり、よろよろと杖をつきながら乞食をする。そして、その姿から弱法師(よろぼし)と人から笑われる。俊徳丸説話はバリエーションがいくつもあって、そこからの復讐や回復の物語もあるが、能の「弱法師」は、回復劇ではなくて、弱法師のまま家へ帰っていく物語になっている。

人間は、大地の力に拮抗しながら、大地へと帰って行く矛盾のなかを、よろよろと生きる存在だ。そのことを忘れ、大地の力をなかったかのように、文明の「合理」だけで生きることはできない。「合理」だけで世界を閉じてしまうと、弱法師みたいな存在は排除され、その世界の内部も大地の息吹を失って呼吸困難になる。

不登校とかひきこもりというのも、現代の「弱法師」とは言えないだろうか。弱法師が生きられる世界であること。大地に翻弄されながら、死に触れながら、「合理」に閉じないこと。そんなことを思う。

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