ノイズ、多様性、遊び

だいぶ以前のことになるが、上野千鶴子さんが不登校新聞のインタビューで、こんなことを語っていた。

情報はどこから生まれるかといえば、「ちがい」から生まれるんです。いつもと同じ道を通り、いつもと同じところに行き、同じ人に会っていたら、「今日は何もなかった」ということになる。ところが、(略)たとえば外国人と接すると、あたりまえと思っていたことでも、いろいろ説明しなければならなくて、情報量があがるわけです。

異質な者どうしが接触したときに、ザワザワとした摩擦が起き、ノイズが発生する。情報理論では、情報のもとはノイズだと言います。ノイズのうちで、ノイズのままのものと、情報に転化するものがある。しかし、ノイズが発生しないところには情報は生まれようがない。できるだけ自分とちがう人と接触し、自分のなかにちがう世界を持つ。そうするとザワっとする。このザワッが情報のもとになる。

逆に、自分と似たような人とだけ付き合っていたら、情報発生が抑制されてしまいます。ノイズの発生しないような組織は、組織ごと沈没していくことになると思います。 学校も企業も、管理社会はノイズを抑制するように組織をつくってきました。そのほうが管理するのにラクですからね。同学年を集め、男だけ女だけで集めてきた。そこに外国人や障害児が入っていったり、学年を超えてクラス編成したりすれば、ノイズが発生するはずです。
『不登校新聞』2003年4月1日

このノイズをおもしろいと思うかどうかで、場のあり方やコミュニケーションのあり方は大きく変わってくるように思う。異なる文脈、異なる意見の交差するところにはザワザワと摩擦が起き、ノイズが発生する。それを多様性と言ってもいいのだろう。
教育機会確保法をめぐる議論のなかで、「多様性」と「多様化」はちがうという議論があった。たとえば、桜井智恵子さんは、次のように語っていた。

多様性という言葉は多様化とはちがいます。多様性というのは多種雑多な人たちがいっしょに在るという意味です。(略)多様化することで逆に子どもたちは分類分断され、多種多様雑多な人たちが生き合うという経験そのものが縮減される。(2016年3月23日、教育機会確保法案緊急院内集会での発言)。

多様化の場合、いろんな場が増える一方で、それぞれの場はタコツボ化してしまって、その内部では、かえってノイズが発生しにくくなってしまう。そういう場ではノイズを抑制しがちで、異なる文脈を持つ人や、異なる意見は排除されやすくなる。そして、そういう場からは、新しい情報は生まれず、語りがテンプレート化されていく。

そういうノイズの抑制は、あちこちに見られる。たとえば教育機会確保法をめぐっても、「賛成派」にも「反対派」にも、ノイズの抑制はあったように思う。意見の内容いかんにかかわらず、同じ考えの集まりにしようとすると、その集まりの内部ではノイズが抑制されてしまう。

自分と異なる意見が出てザワついたときは、それをおもしろいと思えるような遊びが大事だろう。ザワつきを笑いに変えてしまうような遊び。そういう意味で言うと、大阪の人には遊びがあるというか、自分と他者は異なるということをわきまえている人が多いように思う。私は関東出身のせいか、そういう間のとり方は下手くそなほうだと思うが、見習いたいとよく思う。遊びの部分を無理に詰めてしまうと、摩擦熱が高まりすぎてオーバーヒートしてしまう。

話は少しそれるが、インタビューがおもしろいと思うのも、異なる文脈がすれちがうところだ。インタビューはinter-viewで、「見解」の「あいだ」に成り立つものだ。語り手の見解をなぞるだけのインタビューよりも、聞き手の見解とのあいだにノイズが生じるインタビューのほうがおもしろい。ノイズの発生しない、あるいはノイズリダクションをかけてしまうような記事は、おもしろくない。そこには、気づきや発見がないからだ。
多様性を謳っている人たちが、多様な意見が出るとキレてしまうこともままあるが、多様性と言うならば、ノイズこそを大事にしようと言いたい。

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